読了。ワタシもノベルス化を待ってたクチです。
それでもやっぱり電車で読むのは腕が疲れました(笑)。
以下ややネタバレ。
最初の『赤えいの魚』が何しろ怖かった。
百介じゃなくてもイヤな汗が出ます。おぞましいです。
描写もグロなので、イメージを膨らませるとオエッとなります;
でも、流行の孤島ホラーものとは趣旨というか怖さの成分が違うというか。
まあ読んで一緒に気持ち悪くなろうよ(笑)!
これのインパクトが強すぎて、以降の章はおもしろいけど正直小品に感じてしまいました・・・。
妖怪シリーズの方を読破していないと気づかない、ファンサービス的要素もありました。
『五位の鷺』で「アレ? 鳥の火といえば・・・」と思いながら読み進めると、
「あっそうつながるのね~(ニヤリ)」とかね。
今この時代の、ワタシの感覚からすると、明治維新より前の世界はすべて物語の中のように感じるのです。
現実に髷を結い刀を差した人たちが、それほど遠くない昔、同じ国にいたことが信じられない。
まるでエルフと同じように、どこか架空の国の人々のような感じがする。
頭では歴史を知っていても、つながりを感じられないのですね。
この断絶感は何なのだろう? ということを、年老いた百介の語りや4人組の会談によって明らかにしてもらいました。
江戸の人たちは、決して無知で迷信深くはなかったのです。
怪異を本当に怨霊だの妖怪だのの仕業だと思っていた人は、もう少なかった。
わかっていながら信じる、怪しいものをそのままにしておく、一種の生きる知恵を持っていた。
理屈ではどうしようもない人の恐怖や苦しみを怪異として理解し、受け入れ、
山の中や夜の墓場や・・・何より、心のうちに居場所を与え、許容していたのですね。
その仕組みが維新の後、だんだん効力をなくしていく。
世の中がひとつの法則(科学とか国家権力とか)に従わされ、万人が平等の名の下に共通の現実を生きることを要求されるようになったのが、明治以降なのかなと。
どちらも言葉を操り人の心を操る能力を持ちながら、
江戸の又市は、怪異を作り出して、人を生かす。
戦後昭和の京極堂は、怪異を解体し(望まないながら)人が死ぬ。
ふたつの代表シリーズは、「怪の在る世」と「亡き世」の、対比のように感じました。
今は、作られた統一感が崩れはじめて、生活スタイルや思想信条といったレベルでなく、
再び人の数だけ違う「現実」が並行するようになりつつある時、なんじゃないかな。
でも、一度存在を否定されいわば絶滅した妖怪たちが、復活することは難しい。
かつて様々な姿をしていたモノどもも、この怪亡き世界では苦し紛れに心の闇とか神経耗弱なんて
粋でない名前をつけられるのです。
ところで、これで巷説が終わるわけではない・・・ですよね!?
前日談とかいくらでも膨らまし甲斐のある世界ですし。
何しろ神出鬼没の又市さんのことですから・・・
新作、楽しみにしてます♪