東畑開人先生の新刊、読みました。
コロナ禍の中、大学やカウンセリングルーム、時事から、著者が拾い集めたことごとの記。
東畑さんや平野啓一郎さんの本を読んでると...心も人格も、私の体とか脳の中に確固としてあるんじゃなく、 誰かとの間にモヤッと 「発生」 してて、関係性の数だけ生まれたり消えたりしてるんだなあ~とか...そんなことをよく考えるこのごろです。
「自分の背中は見えない」みたいな話で 弱み/強みを自覚するには どうしても他者の視点が必要で、コンプレックスが人から見れば長所や美点だったこともあるし、
短所も、傷つくことを恐れず教えてもらって気づくのが、ひとが成長したり変わっていくのに大事だ。
何しろ、他者とやりとりしないとなあ~。
東畑先生の本はいつも本当に、ラストがジンワリと染みる言葉で締めくくられていて。
ネタバレを気にするジャンルの本ではないから、今回も引用。
生活は忘却の集積だ。それでいい。常時心と向き合っている余裕は現代の私たちにはない。それでも心は存在する。ときどきでいい。振り返れば心がいる。思えば、そういう1年だった。文章を書き、読んでもらう。ここには心が二つある。私の心と読者であるあなたの心だ。心が一つ存在するために、心は必ず二ついる。
東畑さんは心理士だけど、ご本人の意識や自負と関わらず、詩人でもある、と思ってる。
あ、でも、カウンセラーの言葉がときどき詩に肉薄することは、自分がカウンセリングを受けに入っても感じることはある。そういうものなのかもしれないな。
それと、記事の中で特にヘェェ~! とメモッたのが 『嫉妬』 という語に含まれる、ふたつの似て非なる心の動きのこと。
「嫉妬」の
「嫉」は「ソネミ」 : 相手に良いところがあることは認めている。(例:あの人は〇〇を持っててすごいな。自分も同じものが欲しいな。など)
「妬」は「ネタミ」 : 相手のうらやましいところを否認し貶める。(例:あの人が〇〇を持っているのは不当だ、ズルイ手段を使ったからだ。〇〇なくらいでは大したもんじゃない。など)
「嫉」よりは、「妬」のほうが、目の前の現実を直視できない、自分の感情をナントカして正当化したい態度が強めだなあ~、と。今どきで言う、「『ネタミ』のほうが『こじらせてる』」感があるな。
そんで、ネット上の、匿名の間柄で投げつけられる中傷の言葉は、こっちのネタミのほうが多いような気がします。そこにないはずの、見えないものを見て行間をよみとりすぎて、「こいつはこうに違いない!」 って、相手をむりやり敵やモンスターに仕立ててしまってる人が多いような。
うらやましい、うらやましくて、うらめしい...! と嫉妬の心が発生したとき
「いま自分の言葉づかいは、『嫉』 と 『妬』、どっちに近かった?」 と立ち止まってみるだけでも、嫉妬の炎に多少冷水をぶっかけて、鎮めることができそうな気がします。
まとまりませんが、ほかにも色々 フーーーン ヘーーーーーエ、ホーーーーーー! の連続の内容でございました~。