ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

「私とは何か 『個人』から『分人』へ」読みました。

 以前から気になっていた、平野啓一郎氏のエッセイを読みました。

 

スマホのメモ書きに残してた、気になったところを抜き書き↓

 

全体主義は「個人」を、強制する。

分人は「対人関係」ごとに生じる。

色々な自分を生きたい欲求があるが、その反動として「個人」に統合しようとする力も働く。人は二つのレイヤーを生きる。

自分と会っていないときの他者の、別の分人を知りたい、という欲求もある。相手に「個人」であることを要求する。

好きな分人を持つと、その分人を生きれば良いので、肉体的自殺をしなくて済む。

殺人とは、その被害者の生命だけでなく、被害者から周辺につながる「分人同士のリンク」を破壊する、未来の「分人の発生可能性」も奪う。殺人者は、被害者との分人において、刑を課せられる。

好ましい相手とは、「そのひとといるときの分人を好きでいられる」ということ。他者を経由しているので、ナルシシズムとは違う。
他者を経由したかたちの自己肯定、「あなたといる時の自分を好きになれる」 という愛の状態。

個人も恋愛も 日本人にとって、まだ新しい概念。

文化多元主義(さまざまな文化が混交してゆくことがよい)

↑↓
他文化主義(それぞれの土地や先祖代々根付いた文化を守ることがよい)


分人は個人を超えて、異なるコミュニティの間で影響し合う。
全体に包括されるかたちではなく、小さな結びつきで異文化や異なる価値観が融合するようにはたらくのが、分人。

個人は人間を個々に分断する単位。

分人は個人を越えて人とのあいだに在るもの、人間を個々に分断させない単位。

 

分人が幾つあっても、顔(肉体についている、顔)だけは一つしかない。ヌード写真を公開する人も顔だけは隠す。顔が持つ固有性。

 


 

単純に、「ここにいる自分は嫌いだけど、あっちにいる自分は好きだな」と言える相手や場所があれば自殺しなくていい。ってこと、ありますよね。

この「あっちがダメでもこっちで生きる! 『つぶしがきく』人格を持つ!」ということに まずとても共感できました。w 

本文はそこに止まらず 「社会のあり方も、分人という考え方で変えられる」 ということにも、踏み込んでいくわけですが。

 

中学生のとき、若者向けに書かれた ユング心理学の本を読みました。

このときに触れた、特に人間関係において重要視される概念が「ペルソナ」でした。

古典劇の「仮面」という意味のとおり、人は立場に応じた仮面をかぶり、服装・言葉遣い・ふるまいなどを使い分け いわば「役を演じて」生きている。

というような解説に「なるほどたしかに。学校での私、家族の前での私…と、無意識に演じ分けているな。」と、納得したものです。思春期に強く影響を受けました。

(そのまんま「ペルソナ」という人気ゲームシリーズがあるように、ユング心理学の元型や性格タイプ論などは、いろいろなサブカルチャーの世界観作りにも影響を与えていますよね。オタクだった若い自分には、飲み込みやすく親和性が高かったのでしょう)

 

「ペルソナ」によって個人のあり方を理解しようとすると、「場面に応じて演じる役」 という「外むきの自分」があるからには 「何も面をかぶっていない、本来のすがたの自分」、「自分の『主体』」というものもどこかにいるはずだと…いうふうにも、この説は解釈できます。

「仮そめの自分」を立てることで「そうではない自分」も、どこかにいるように思える。

 

対して 「分人」は「仮の自分とか、本当の自分という区別も主従関係も、そもそもないのだ」という考え方です。

いくつもの場面によって使い分かれるペルソナ。それら、すべて「自分」なんだよ。自分に「かりそめ」も「ほんとう」もないよ。というとらえ方です。

「私には演じている自分しかない。抑圧された本当の自分があるのではないか。」と、悩まなくてもいい。

「あれもこれも紛れもない私である。私は私をとりまく人々との関係の合間に、あまねく偏在している『分人』」である。

「この自分はウソの自分」と思わなくていい。「この場所の、この相手といるときの分人が好きだな」と思ったら その関係を大切にしてゆけばいい。

ペルソナが増えることを「作られた自分をすげ替える」ではなく、「自分の数が増える」「好きな分人が増えれば増えるほど、生きやすい」というふうに、人間関係や環境までも自分の一部として受け入れ、「関係を自分に統合」していくような。

広くてやわらかく、自由に形を変える自分としての「分人」。

 

長いことユング的な概念に、囚われていた...というほどではないですが、他の視点で「自分とは」と考えることが出来なかったので、この「分人」概念が、とてもしなやかで自由に感じました。

 

ユングはさまざまな、個人の心の中にある 未発達な感情機能や 認めたくない影の人格、などを統合して まったき『自己』に近づく 『自己実現』に向かうのが人の成長過程だと考えました。

しかし「別に統合されてなくても、自己実現が成されなくても、良く生きる道はあるよね」というほうへ、目が開かれた思いがしました。

 

個人よりも、もっと細かく分かれ、他者との「あいだ」にゆらぎながらあまねく偏在する。

分子のような、精霊のような『分人』。

 

なんだかとても息がしやすくなる、とてもおもしろい概念だな、と感じました。

 

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