ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

「野の医者は笑う:心の治療とは何か?」読みました。

とんでもなくおもしろかったです。

タイトルに登場する「野の医者」は、イメージしやすい言葉に代えるなら「スピリチュアル系」の癒しの術を行う方々のことです。

医師免許を持たず、また科学的な論理・手法によらず、人の悩みや心の病を治す人たちです。

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

著者の東野氏は、臨床心理士として沖縄の診療施設で働いていましたが ある時、視線恐怖の症状があった患者さんが「ヤブー」のところに行って症状を癒された、という出来事を知ります。

この「ヤブー」が沖縄の言葉で民間の治療者を指します。沖縄では 先祖の霊や土地の精霊と感応するシャーマン的存在、「ユタ」と呼ばれてきた人々(女性が多い)が、昔から悩み事や病気の相談に乗ったり心身の治療をしたりしていました。

「ヤブ」と聞くと「インチキ、いい加減な治療をする」医者を連想しますが、その語源は「野」+「巫」で、「民間の、不思議な力を使う癒し手」を指していた言葉だったそうです。

この「ヤブ」の世界からTV出演するタレントになった方が、前世の因縁や魂の姿などを語るとき「スピリチュアル」という言葉を浸透させました。

前世や霊魂など物理・科学的には認められない「見えない世界」の存在を信じたり、精神世界の探求をする人をさして「スピリチュアル系」と呼ぶのが定着したのはつい最近、今世紀になってからだと思います。

著者が名づけた「野の医者」とは このスピリチュアルな現代のヤブ医者のことで、いろいろな流派や理論を取り込んで分化・進化しているようです。

人気のある「野の医者」は施術の他に ヒーリンググッズ販売や出版、術を手ほどきするセッション・セミナーなどで収入を得、マスコミに出演することもありますが、そんな人は数えるほど。

ほとんどの人は自宅、ビルの一室、あるいは決まった開業場所を持たず身ひとつでアチコチ出張して施術を行います。

その治療法は医療の常識からすると論理に飛躍があったり、施術法がエキセントリックだったり、いわゆる「迷信」「トンデモ」だったりします。

でもいかに手法がトンデモでも、確かに何人もの人を悩みや迷いから救っていて。

彼らはどんな時代にもいなくなることはないんだ、というのは体感でわかります。

私が住んでいるのは「スピリチュアルアイランド」沖縄ではないけれど、街にはそれらしき「癒し」をするお店の看板がたくさん出ているし、検索すればたくさん見つかります。

地域のイベントにも、ハンドメイド作家さんのブースと並んで参加していたりして、身近に感じます。直接コンタクトしたことは(最近は)ありませんが。

そういえば 妊娠中パワーストーンでブレスレットを作るのにはまっていましたが、その参考にした本を執筆されていたのも、沖縄でパワーストーンショップを開業した草分け的な方でした。

なんてながったらしく書かずとも、誰しも「ああ、ああいうの」と具体的に思い浮かぶモノがありますよね。

例えば古くからあるいろいろな占い、運命鑑定。「オーラソーマ」「前世療法・天使療法」「インナーチャイルド」「チャクラ」など、海外から入ってきてよく見るようになったもの。

波動や気などを使って不調を治す治療院など(鍼灸・マッサージの資格を持っている場所でもこういった理論を唱える方もいるので線引きは難しいですが)。

ワタシもスピリチュアル、興味があるっていう意味では 好きなんだ。

でも その語る言葉の響きやグッズのデザインが良いなあって、「好き」なだけで、その世界の住人ではないかな?

パワーストーンがそうだったけど、悩んだ時ワラにも縋る思いで信奉するときはあっても、本当に一時ですぐ醒めて離れてしまうんですよね。

占いの結果などで、「当たってる!」とすぐわかるくらいのことなら占ってもらう必要なかったんじゃない? などと思ってしまいます。

ただ「なぜこのシステムに癒され、人生が転換する人がいるの?」「臨床心理学とスピリチュアル系って何が違うの?」っていうのにはずっと興味がありました。興味があるだけでつっこんで調べたわけではないです。

著者のような広く深く修めた知識も行動力もないので、このルポタージュには「思うは易し、行うは難しなのに、よくぞやってくださいました...」と、感謝と尊敬がわきました。著者の取材手法は、相手の信ずる「癒し」を否定することなく、それでいて特定の流派に入れ込むこともなく。

取材に応じたあらゆる野の医者に、ときには患者として治療を受け、ときにはセミナーの受講者として真剣に向き合い、彼ら彼女らの生い立ちや野の医者になった転機を聞き出してゆきます。

でも全然学術的じゃなく(必ずわかりやすい付記解説があります)難しくもありません。著者の人柄から来るユーモア、「軽さ」のお陰でスルスル読めてゲラゲラ笑えて。コントか!というくらい、野の医者とのやりとりはおかしいです。

野の医者の治療法を理解するキーワードとなる「ブリコラージュ」については「なるほど&あるある!」と納得しました。

超自我」「ポストモダン」「相対化」等の心理学の本で頻出する言葉の意味も、今までになくよくわかりました。

彼の本業が何かはよくわからない。もともと肉体労働をしていたそうだが、あるときから足揉みを始めたらしい。リフレクソロジーというイギリス由来の足裏マッサージがあるが、彼の足揉みはそれとは違う東洋系だそうだ。
しかし、彼の本領はただの足揉みにはない。スピリチュアルの方もすごい。どうすごいのかと言うと、別に霊感がすごいとかではない。すごいのは喋りだ。彼はひたすら喋り続けるのだ。

「お疲れ様って言うと、疲れちゃうでしょ。だから僕はお楽しみさま、お幸せさまと言うんだよ」ギノザ氏は足裏を揉みながら、にこやかに喋り続ける。
「イッターーっ!」凄まじい痛みがかかとから襲ってくる。
「ありがとうというのは、有るが難しいと書くでしょ。だから、なかなかないこと。それでありがとう」
「痛いです! 死にます!」
「五感が研ぎ澄まされるのが大事。痛いというのは感覚。これが生きているということ」
「痛い! 痛い! 痛い! 助けて!」
「大地にグラウンディングって言うでしょ。大地のエネルギーを吸収して、まっすぐ立つ。だから足の裏に意識を通しましょう」
「ほんとに! 痛い! 死ぬ! 神様!」
「神様っていうのは、上様(カミサマ)でもある。天と繋がるのが祈り。大事よー」
「はい! 神様! お願い! 痛い! 痛い!」
「はい、お幸せさまです!」ギノザ氏はぽんと私の足を叩く。

...なにこの体当たり取材楽しそう! 私もやりたい! 研究資金ください! っていうのが読み始めの印象でしたw

でも著者のような「醒めた視点」+「ユーモア」+「軽さ」がなければ、いつか特定のヒーラーの信奉者になってしまい「野の医者とはなにか」という最初の問いを忘れて、「私が癒されたように誰かを癒したい!」とヒーラーを目指してしまいそうだな~、きっとそうなるな~!。

だから、おいそれと誰でも成し遂げられる研究ではないなと思いました。

「野の医者」が住む、広くて深い、惑いやすい世界を旅するコンパスは、著者が大学と職場の臨床で身につけた「科学」の視点・言葉、なのだなあ。

「○と×は何が違うのだろう?」「そもそも私は何者? どんな立場にいるのだろう?」と、他をうたがい自分をもうたがう。問い続け疑い続ける姿勢。

その「疑い続ける姿勢」が、スピリチュアルと非常に似た分野を扱う親戚のような精神医学が宗教や迷信から訣別した最大の違いでした。

著者が「彼ら野の医者と自分にどれほどの違いがあるというのか。実はとても近しい親戚のようなものではないか」ということに気づき「疑い」を持つ時点で、しっかり「科学の子」なのだなあ、という気持ちになりました。

研究を始めたときは、著者自身の人生にも突然転期が訪れ、心が調子を崩す危機だったのではないかと思います。

だから自分の立つ足元を見直し、胡散臭いと思い込んでいた世界に引かれ、回り道をし、冒険の末に臨床心理という「ホーム」を再び発見しました。

帰ってきた心理学の世界は著者にとって以前のように確固とした・居場所を担保してくれる世界ではなくグラグラと揺れているみたいです。科学は「自分自身すらも疑う」から、救済や悟りの境地はなく、安穏とすることはできないのだと。

でも発展する可能性もある、生き生きしたものに変わったみたいです。飛び出して別の場所から見て知った故郷の姿。

エピローグ(ネタバレになりますが...)で著者が、共にあるセラピーの講座に参加した女性(さまざまなスピリチュアル遍歴を重ねた末、彼女は自らの気づきで、その世界から離れました)と語り合った場面に胸が熱くなりました。

感慨深かった。それが臨床心理学、特に精神分析が語ってきた治癒の物語だったからだ。
人は何かを理想化し、そこに縋っているだけでは成長しない。そうすると、相手だけがいいものになって、自分が空っぽになってしまう。
だけど、サヨコさんは野の医者に不信感を抱き、そうすることで彼らの現実を知り、そこから離れていくことになった。そうすると、いいものは彼女に帰還してくる。強くて立派なものは野の医者に独占されるのではなく、彼女にも分け与えられるのだ。
人を憎み、別れていくこともまた心の栄養なのだ。サヨコさんはそういう時期を歩んでいるようだった。

「色々な治療を受けてきたんですけど、私の中で一番良かった治療っていうのがね......」彼女は間を置いて、少しはにかんだ。
私は興味があった。長く野の医者を巡ってきたサヨコさんは、何を思っているのだろう。
「それがね」彼女は言った。「東京のクリニックで受けた臨床心理士の治療だったんです」

突然のことで、不意を突かれた。その瞬間、彼女が何を言っているのか意味がわからなかった。一瞬遅れてから、言葉の意味がまとまりを持って伝わってきた。
「ほんとですか!」思わず私は言った。
「はい、私が一番苦しかったときに、本当にちゃんと聞いてくれたんです。そういう人はほかにはいません」サヨコさんは言った。
恥ずかしいことなのだけど、私はその瞬間、泣きそうになってしまった。立ち上がって、彼女の手を取って、ブンブンと固く握手をしたくなった。と言うか、した。
「ありがとうございます!」そう言いたくなった。と言うか、言った。
とてつもなく嬉しかったのだ。
臨床心理学を「良いもの」だって言ってくれる人がいることに、私は心底感動していた。
サヨコさんの言葉は、私が気付かないようにしていた心の襞にすっと入ってきたのだ。

長くなりましたが私も嬉しくて、もらい泣きしてしまったところw

スピリチュアルにはまっている方が目指す地点というか「癒されたとみなす、ハッピーな」状態って「軽い躁状態」なんじゃないか? と著者は指摘します。

野の医者が『治癒』とみなす地点と、心理士の目指すそれには、かなり違いがあるな、と。

私も常々感じてました。「なんでスピリチュアルな人ってよくしゃべるんだろう...(精神科のお医者さんや心理職の方はジックリ聴くのに徹してたので、余計に差を感じた)テンション高い...」って。まあ、よく笑ってしゃべるのは楽しいことだけれど。

たぶん私がスピリチュアルにハマれない、と思ってしまうのは、同じようなハッピーな躁状態を「おもしろい漫画やアニメを見た」「大ファンな歌手のライブに行った」「作品を褒めてもらった」などの、それに「替わる行為」によって体験できているからなんだろう。

あるスピリチュアル療法に癒され、効果が発揮されてる状態というのは「野の医者」が語る「幸せに至るストーリー」を共有し、信じ、その「物語の世界の住人になる」ことだと思います。

(これらの癒し手のほとんどが、自身がかつて困難にあって心病んでいた人で「自分が病んでいたこと」、そこから「癒された奇跡の体験」を語るのが象徴的です)

「物語を作って、語って、拠り所にする」...という癒し行為を よそでやっている、創作の世界の住人であるところの私は、お互いに「間に合ってます」「お呼びでないです」という存在なのかもしれません。

野の医者の治療の効果があるかないかは すべて彼らが提示する「物語に共感できるか」「世界観に参画できるか」ということに尽きるのだと思いました。

創作もスピリチュアルも、ある程度「違う世界の住人になる」心を必要とするのはすごく似てる。

「人生のどの位の割合を別世界の住人として過ごすか」って言う程度には個人差はあると思いますが。

私は、「自由にゆるく行き来したい」派かな。救われたからと言って「救われていない」とみなした人たちと訣別して、遠い世界には行きたくなくて。

常識的な社会と目に見えないアチラの世界、どちらにも魅力的なところがあって、どっちの美味しいところもいただきたいんだよね~。

うーん、今頼りにしているヒーラーさんやヒーリング理論がある方が読んでしまうと、まるで「魔法を強制的に解かれる」ようで不快感を感じる本かも。と、ここまで書いてきて気づきました。

ただ、著者が言うように「幻滅も必要だよね」「何も素晴らしいものを持っていなくても、ハッピーじゃなくても、ただ生きていていい」は、実感なんだよなあ。

同じモノゴトに良し悪しの価値をくっつけて、受け止めているのは「自分自身」だし。

不幸の元を、作り出しては排除していると、それはずっと影のように脅かしてくるだろうし、

また素晴らしいものに対しても、あまりにあがめ奉っていると、いつまでも遠くにあって自分のものにはならない...。

いつもハッピーでもなく、最悪でもない、波のある自分を「受け入れる」っていうのが心理士、また精神医学の分野から見た「治癒した」状態なんでしょうね。

「悩みを悩みとして認め、悲しみをしっかり悲しめる」のが「心がすこやか」な状態なんです。たぶん。

体を診るお医者さんも(職場の産業医さんです)「良くなったり悪くなったりするのが生きてる証拠だから~」と、身もふたもない事言って笑ってました(でも真実)。

すごく長くなってしまいましたが 自分の知りたいことをいっぱい満たしてくれる、素敵な知的冒険ノンフィクションでした。

沖縄が「なぜ」「いつから」ヒーリング&スピリチュアル王国なのか? っていうのにも触れられていて、文化民俗の勉強にもなりますよ~。