ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

精神的なケアが必要な人間だから、描いていた。

フォローしている方の最近のつぶやきから連想した事について、まとめました。

薪さん、いつも言語化しにくい感覚を言葉にしてくださってすごいなって尊敬します

身近な人からの承認が乏しかったり、コミュニケーション上の傷つきがあったり、コミュニケーションをあきらめた経験(どれも、その相手は何も思ってない・気づいてない場合が多いので、あくまでも主観、受け止め方です)があり、その経験から不特定多数の人にほめてもらう「手段」として、ものかき・ものづくりするようになったタイプのオタクです、私は。

でも、それ、「遠回り」で「賭け」ですよ。

と、最近考えるようになりました。

 『ケアして欲しい』、それが無意識の目的なのに欲しい反応がまったくないかもしれない。

それどころか、酷評され、中傷されるかもしれない。

 「作品を生産してくれる良い道具」 としてしか扱われないこともある。

「『私を』認めて欲しい」 という重たい願いを持って表現している、作品と自分が同一のもののように癒着してる人が、「ケアされたくて作ってる」ことに無自覚なまま、広い世の中の、厳しく冷静な反応に遭ってしまうと 「まるごと否定された!」って、さらにメンタルを病むことになりますね。

 

『ケアして!』 とストレートに言える場と相手に繋がったほうが、こじらせないんです。

顔も知らない 誰かに助けを求めてる場合じゃないです。

 

...と思いながら 絵描くのをやめて相談機関に通う日々です。

 

そうでした、上に述べてきたことは ただの自分のことでした。

 

見ての通り私はいま何も生み出せません。チラシの裏のらくがきすら怖くてできていません。

まったく顔の見えない誰か、自分の中の声が、『下手くそ』『またパクリって言われるぞ』 と、なじる声が聞こえます。

三者に「そんなことないですよ」 と慰めてもらうことを求めるのではなく、描けていた頃の ある種の「図太さ」や「図々しさ」を自力で取り戻さなくてはいけません。

「他者に評価を委ねない。私がしたいことをすると、自分で決め自分の責任においてやる」 ようにならねばなりません。

 

「勝手にしろ、誰もお前に興味なんぞない。」

という声に

「ハイ! 勝手にします!」 と言えるようになる。そのために模索します。

 

重ねてですが、カウンセリングに通って 人の助けはある程度借りて、自己理解をしようとしています。ひとりだったら堂々巡りの行き止まりで、死にたい気持ちしか出てこなくて酒で紛らわすのがオチなので... 専門家に聞いてもらうことは 今のところとても助かっています。日常の生活を送るエネルギーの補填ができます。

 

承認欲求が強かったり 居場所がない... と感じやすい人でも、同じ趣味キッカケで出合い、深い部分でケアもしあう、両方兼ねるような、そういう関係の人もいっぱいいると思います。

「オタク同士で遊ぶの楽しい、元気になる」って言える人は そういう関係を作れたんだなあ、と思う。

 

「私は承認に餓え渇いた、無限にケアされたい人間だ。他に描きたい理由なんてない。

そんな脆弱な足場に立っているが、それを自覚してなお、発信して行こう」

という 自己受容が出来た上で、また描きはじめられたらいいな…と思います。

あるいは

「なんにも生み出せない自分で良いじゃないか」

「なんにも生み出せない私でも、ここに居場所がある」

という受容の方向でも、いいなと思います。

先のことはわかりません。

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