ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

好きという気持ちについてボンヤリと考えたこと。

好きとか嫌いとかって、反射反応に近い部位で脳が処理してるような気がしてて。

出会い頭の一瞬で「アッこれ好き!嫌い!」はすでに決まっちゃってて、その理由は、みんな後づけでひねり出した物のように思う。言葉は時間がかかる。感情よりずっと遅れて来る。

「これが好き/嫌いだから、似たようなこれも好き/嫌いなはず」とか「私はいつも◯◯がヘキ、◯◯属性が好き/嫌」とか言えない。例外はいくらでもある。

何となく好き/好きになれない、微妙な差異や違和って、確かにあるけど言語化できなかったりが、たくさんある。無理にパターン化して、整合性つけなくてもいいと思う。

オタク属性は「自分の『好き』を、何らかの形で、言葉で定義づけしたがる」人でもあると思うんだけど。全然、そのときどき違って、支離滅裂でいいんじゃないかと思う。

昨日まで好きだったものが「あまり良くないんじゃ…」もあるし、逆に、無理だーと思ってたものも ある日とつぜん新しい扉が開くこともある…。

 

あと、なんだか自分は

「好きなことが、時々よくない作用をするんじゃないか」

「好きが、執着や視野狭窄を起こすんじゃないか」

って怖がってしまう。

最近ある事務所や芸能ジャンルのファンの、「世論がよってたかって、私たちの好きなものを誹謗してくるんだ。だけどそれは全部ウソで、言いがかりなんだ」という反応。

「自分の好きなものは、正しいはず」固執するすがたを見て 「あ、私も、時と場合とキッカケによっては、そうなっちゃうかもしれないな…。」と感じたのが、あります。

端から見ると「私が好きと思うこと」と「正しさ」は何もつながらないんですけど。好きなものが責められたからと言ってファンが責められる謂われもない、むしろファンもつらい思いをしたという点で被害者で、怒ってよいのだけれど、好きなものに対してなかなかそうは思えない。自分の好きなものは清くあって欲しいし、出来れば皆に受け入れてほしい。一生懸命に正しさを主張したくなる。

「好きなものを持つ」ということは「ものの見え方に、かたよりが生まれる」ということなんじゃないかなって。「これが最高!」「これしかない!」と、思うことは、何かアブナイな、視野が狭くなってしまうな、と感じています。

かたよりに、自覚的でいたいと思いました。

めちゃくちゃ何かに夢中にならずにいられない自分と、 それを斜め上から、冷めた目で観察してて「でもそれは自分にとって大切なものかもしれないけど、イコール人生のすべてではないよね。」と理屈っぽく分析する自分に、分裂してる気持ちがずっとある。乖離というほど、すごく分裂してるわけじゃないけど。

今のところは、誰にも何も言われてないのに、「冷静になろう。」なんて思わなくていいんでしょうけど。

なんとなく、心構えとして、です。