2年生になりたての息子の新学期が始まりました。
2日目の朝 「つかれたから今日は休む」と言って布団から出てきません。熱をはかるのも拒否。
昨日も友達と遊んでいて、どう見ても元気だったので、とまどいました。
ダンナさんは例によって会社に泊まって帰っていませんでした。
しばらく枕元で行け、行かない、とぎゃあぎゃあ問答をしていましたが、同じ登校班の子達を待たせてしまうので、とりあえず娘を抱えて集合場所へ行き「先に行っててください」と連絡。
やっぱり、観察したところ、体の具合が悪いようではないです。
ここはなにがなんでも引きずって登校するべきか。それとも今日は様子を見ればいいのか?
娘を園へ送っていく途中に、母と会い「今日、休んで寝てるんだよ」と話すと「熱がないなら行かせないと。一度休ませるとクセになるよ」とのこと。
そうだよなー(でも何となくモヤモヤ)、と思いながら寝ながら留守番する子がいる家へ帰り
「オトナは疲れても会社に行くよ、○くんの仕事は学校に行くことだから行こう、お母さんも一緒に行くから」と言ってみる。
けどギャーン! と言って布団にもぐる。
だんだん、ワタシも悲しくなってくる。「このまま不登校になったら・・・」って悲観的になる。毅然とした態度でいられず、オロオロしちゃう自分がいやになる。
アホみたいだけど「息子がこうなったのって 自分に似たからだ」とか、「日々わがままを許していたからだ」とか、
全部自分が悪いんだという方向に考えが向かいます(えてして母親ってそうだと思うんですが)。
どうしていいかわからなかったので 申し訳ないけど仕事中の夫に電話して
「いまこういう状態で・・・」と伝えました。
そしたら彼は「今日は割り切って休んでいいんじゃないの。帰ったら俺からも話してみるから。なかなか子どもたちを見てあげられなくてごめんね。」との言葉。
その言葉を聞いて、すごくホっとしました。「俺も話すから」という言葉をとても頼もしく感じました。
そして「今日は休み。どこも行かずゆっくりすごそう」ということにしました。
そのあと起きてきた息子と ひさびさに娘抜きで、ゆっくり遅いごはんを食べていたら 「・・・今日の学校、ホントは大事な日だったな」とポツリとつぶやく。
その夜 夫と彼が何を話したのかは聞いていませんでしたが、翌日はいつもより早めに登校することが出来ました。
まだ息子は小学校低学年だから、力尽くで登校させることもできますが
そしたら「頭ごなしに言うことをきかされた!」ということ、
「今日学校に行ったのは僕が決めたことじゃない」という記憶は残ります。
「あんたがそうしろって言ったから、そうしたんじゃん!」という、人のせいにするきっかけになりはしないか、と思います。
休んで後々困っても、それも含めて自分で選択した結果なんだと、そのほうが納得して引き受けられると思います。
それに
「登校させるべき」という実母の言葉にはモヤっとして、
「今日は休んでもいい」というダンナさんの言葉にホッとしたのは、
「私の本当の気持ちに照らし合わせて、ウソがないのはどちらか」ということが分かったからだと思います。
「別にいいよ、学校なんか行かなくたって」というのがきっと自分の本心に近いのです。
だいたいワタシが不登校だったのに。それを子どもには見せないで「学校は行って当たり前」っていうのが「タテマエ」すぎて、何か後ろめたかったのです。
「あっワタシ、最初から息子を休ませてもいいと思ってたんだ」と、両方の意見を聞いてわかりました。
自分も納得したカタチで子どもに接した方が、自然と表情も、穏やかになれます。
これが甘やかしだったのかどうか、何が「最善の方法」か。
今はわからないし、子どもの性質による、としか言えないけど。
全部母親の一存にかかっているんだ、と深刻に抱え込まないで、子どもは今こんなふうだよ、という状況を
少なくとも 一緒に暮らして育てている人と共有することが大事だなと思います。
その中から「ワタシは今、子どもと、これをしたい」というのを
いちばんお互いの「気持ちに添う」方法を、手探りで見つけていくしかないのかな・・・。
それも「腹のくくり方」なのかなあ、と。
毎日、こんなこと考えて オロオロ子どもに接しているから とてもエネルギー使います。へとへと。
「子どもが親に逆らうな! 養ってもらってる分際で!」って思えたら楽なのにね。