先週のことですが、中学生の息子が1年数か月ぶりくらいに学校に行きました。
きっかけは何も思い当たりません。最近、強いて声をかけた記憶もなく。
ある日夕食を食べてる時、「半日なら行ってみようかと思って。教室は嫌だけど」と言い出しました。娘は 「お兄ちゃん、すごいね~!」とビックリしていました。
そこで新担任の先生に連絡を取って日を決め、登校時だけ一緒に行きました。昼前まで、保健室で授業の空いた先生と一緒に過ごし、帰りは3年生の教科書をカバンに詰めて、ひとりで帰ってきました。
次の日からどうなったかというと 通い続けることはなく、家にこもる生活に戻りました。「また行く」 という言葉はないです。
祖母(私の母)は 「一歩、前進したね」 と喜んでいたのですが、私は、屁理屈こきなのもあり...「どっちが『前』だかわからなくて、前に進んだと、どうしてわかるのか」 と思ってしまいました。
ふだん 「学校、行かなくていいよ」 と言ってるのが、「学校に行けた!」と、そのできごとだけ見て喜ぶのは矛盾していないか?
ひとつだけわかるのは
「息子はひとりで居るあいだに 相当、いろいろ考えている。
ただ、何を大事に考えているかはわからない。
『こうしたほうがいいよ』 と、他人が言葉で指示して思い通りのほうへ仕向けることが出来る領域でも、年齢でもないな」 ということでした。
「学校なんてイヤだ、疲れる、つらい」と言いながら、それでも、かたときも大嫌いな学校のことを忘れたことはないんだな、「先のこと」を考えているんだな。 …ということは、確認できました。
何かこう、「学校へ行けた」ということを 家族がことさら 「すばらしい、よくやった、前進だ」 と誉めそやすことで 「学校に行けること = 良いこと」 という価値観をいったんは捨てたポーズをしておきながら、また引っ張り出してきた...というふうに、感じられませんか、子どもには。
「なんだよ、結局学校行ってれば、親は安心なのかよ、『気長に待つよ』 なんて建前だったのかよ」 みたいなね。
なので、私は彼には 「また行かないの。次は、いつ行くの」 という声はかけてません。
そうしながら、彼のほうから 「また行ってみよう」「通ってみよう」と、いつ言われても対応し 一緒に登校することにしています。
そして引き続き、病院・自治体の相談機関、自分のカウンセリング等には、常に話しをして、孤立しないようにして行きたいな...と思いました。次回の病院の受診、もうすぐだな。