ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

「孤独と不安のレッスン」を読みました。

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

鴻上さんの演出家としての仕事はほとんど知らないけれど、エッセイは好きです。アンテナがワタシと同じものをキャッチしがちな気がして。

朝日新聞に掲載されたいじめへの提言や、以前読んだ「「空気」と「世間」」も とてもうなづきながら読みました。

もうひとつの気になっていた本「孤独と不安のレッスン」をやっと読み終えました。こちらのほうが「「空気」と「世間」」よりも前の著作なんですね。

なぜ今読んだかというと それは もう、不安でしょうがなかったからで。

以下、ネタバレというか、引用が多いです。

「インターネットの一番の問題点は何だか、鴻上さんは知っていますか?」と、僕の芝居に来たお客さんが見終わった後、アンケートに書いてくれたことがありました。

「熱中して学校に行かなくなるとか、仕事がおろそかになるとか、夫婦関係が崩壊するとかじゃないんです。そんなことは、二次的なことです。一番の問題点は、『簡単になぐさめられること』なんです」

(略)

簡単になぐさめられるということは、応急処置をしてもらっただけということです。

根本的な手術をしないで、痛み止めの注射を打ってもらっているようなものです。

だから、すぐに次のなぐさめを欲しくなるのです。

痛み止めはすぐに切れるので、また、打って欲しくて、インターネットにはまるのです。

根本的な手術とは、『孤独と不安』に生きるんだと、決意することなのです。

このごろ、SNSで発言するとすぐに反応をもらえること、いつも誰かがいることが、うれしい反面、

「なんとなく甘やかされている」感があったり「この繰り返しをして、どうなるのだろう? 何か自分が変われるのだろうか?」という気持ちが強く、思い切って全部お休みしています。
ここに書かれている「応急処置の痛み止め」というのが、たいへん気持ちにシックリ来ました。

楽しく遊べていないのに、止められない離れられない...というのは、つまり「依存」状態ですよね。

twitterは2年前に止めていて、たぶんもう始めることはないと思います。ほかのサービスも、少し距離を持ってみたいと思いました。

その矢先に、この一文に出会ったのは、とてもタイムリーでした。

「どうして、Bさんはあんなことをしたんだろうね?」

と問いかけられて、

「理由なんかないよ。頭がおかしいんだよ」と答えれば、Bさんは、あなたにとって、『他人』です。

「狂ってる」「先祖の因縁」「運命」「血」と、相手の内面と何の関係もない理由でばっさばっさと切っていければ、相手は『他人』です。

なんと分かりやすく、痛快なことか。

でも、たいていは、痛快で気持ちいいからではなく、余裕がないから、ばっさばっさと切っていくのだと思います。とても疲れているとか、家族に病人がいるとか、不安でたまらないとか、孤独でひりひりしているとか、仕事でたいへんなトラブルを抱えているとか、そんな理由です。

 でも、もし、あなたがBさんを深く理解しなければならなくなったとしたら、あなたにとってBさんをさんはいきなり『他者』になるのです。

補足すると、喜びや感動を受け取りつつ、わずらわしさや重さも与えられるという

やっかいな存在が『他者』である、と鴻上さんは言います。

プラスの感情ばかりの関係のまま人との関係が深まることはありえないのだと。愛着と憎悪は一体だと。

そしてその『他者』の代表的なすがたとして「親」「恋人」を挙げます。

それはこの本が独身の若い方をターゲットとして書かれているからだと思いますが、ワタシにとっては「配偶者」「子ども」もまた、この『他者』に含まれる関係だと思います。

接するのにひどくエネルギーを消耗するけど、かといって切り捨てることが出来るかといったら出来ず、切り捨てたとしても楽になれるとはかぎらない。そんな大切な存在です。

じつは、人間が成熟しているかどうかは、『他者』とどれぐらいつきあえるかだと僕は思っています。

 やっかいな存在=『他者』とどうつきあえるかが、その人が成熟しているかどうかのバロメーターだと僕は思っているのです。

 そしてそれは、別な言い方をすると、自分の不安とどううまくつきあえるか、ということなのです。

『他者』とうまくつきあえる人は、自分の不安ともうまくつきあえるのです。
「前向きの不安」を生きられる人です。そして、孤独とも。

 もちろん、何度も言いますが、つきあい方の正解はありません。

 それは、『孤独と不安』をどうしたらいいのかということに、たったひとつの正解がないことと同じです。

 宙ぶらりんな状態のまま、『他者』と、そして『孤独と不安』とふうふう言いながらつきあえる人が、成熟している人なのです。

『他者』とまったくつきあった経験のない人は、葛藤に耐えきれず次々と『他人』を作り続けていきます。そういう人は、同じように、「後ろ向きの不安」に振り回されるのです。

そして『他者』とどれぐらいつきあえるかが成熟のバロメーターだということは、逆に言えば、『他者』とつきあうことで、人間は成熟するということです。

そして、成熟することで、自分自身の『孤独と不安』とうまくつきあえるようになるということなのです。

 つまり、他者と出会い、他者とつきあうことが、『孤独と不安』に対する練習にもなるのです。
 と言って、最初は、もちろんうまくいかないでしょう。けれど、ああでもない、こうでもないとのたうち回ることで、間違いなく人は成長し、『孤独と不安』に対する耐性ができるのです。

ずっと「関係をばっさりと切れる」人こそが大人だ、すばらしい、と思っていました。

切れない自分が、いつまでも過去に執着し続けるとてもだめな人間だと思っていたワタシにとっては新鮮な視点でした。背中を押された感じがしました。

「関係をリセットする」「過去を清算する」のが好きな人、それが出来ることが長所と思っている人は、たしかにいて。

Web上で言うと、SNSで傷つくことや不快なことがあるとアカウントを削除し、また取り直して、以前のフォロー・フォロワー関係を破棄することで別人として再出発する人でしょうか。

(Web上のセルフイメージがあまり現実の自分と離れてなくて、同じハンドルで10年以上過ごして、けっこう愛着がある自分は経験がないのですが)

でも そういう方がうまく適応して楽しくネットや社会の波を渡っているか? というと、また遅かれ早かれ、同じ不安にぶつかり、またリセットを繰り返してしまうように見受けられます。

こころは完全に、別人に変わることは出来ないから。オンでもオフでも、ひととの関係は結局、自分のこころの鏡に映るものを見ているから。

じぶんの心からは、自由になりようがないのです。

好きとも嫌いとも割り切れない、やっかいな感情の荷物を抱え続けることで「心のウエイトトレーニング」が出来て、孤独と不安に耐えるチカラがつくのですね。

「ふうふう言いながら」「のたうち回りながら」つきあい続ける自分を そんなに責めなくてもいいんだな。

三者視点からは「無駄な時間」であっても、この時間は じぶんオリジナルな課題を生きてる時間であって、無駄じゃないんだな。

今苦しいのは、成熟への過程をノロノロ上がっている途中なんだな。

そうとらえることが出来そうです。しんどいことには変わりないけど、励まされました(と同時になぜかボロボロ涙が出ました)。

ほかに心に残ったことは

「不安になったら、誰かに何か『おみやげ』をあげる」 という言葉など。

まだまだあるのですが長くなったので、機会を改めて書きたいと思います。

できれば、もっと多くの、それも学生さんだったり、一人暮らしをしようか迷っている独身の方に読んで欲しい名著だと思います。

こちらの本もセットでどうぞ ↓

「空気」と「世間」 (講談社現代新書) ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書)