煙管で思い出しましたが、今までスマホケースを売ってたネットショップが電子タバコの普及に合わせて「iQOSケース」を推し始めて、
新しい商品に付随してまた新しい商売が生まれるんだなあと思いました。
とりとめもなく。
ちょっとツイッターで話題になってた「調べものが紙の本に帰っていく」というやつ。
「『ググレカス』が真の意味で通じない・言っちゃいけない世の中になってきたなあ」と感じるこの頃です。
少し前に問題になった、健康被害を出しかねない怪しげな医療情報だけでなく、他の事を調べようとしても、広告だらけの真贋よくわからないまとめポータルしか出てこなくなってきたねぇ、と。
まとめサイトのほうが、更新頻度が低い公機関や個人が調べて作ったサイトにくらべ、だんぜん検索順位が上になってしまう。
ニュースや交通状況、天気のような「今・すぐ」知って役立てたい情報はいいけれど、専門的なことを掘り下げようとしたときは役に立たない。やけに時間がかかってしまう。もっともらしい誤った情報を、知らずにつかまされてしまいかねない。
「Webのテレビ化・バラエティショー化」、というのか...。テレビで「くだらないなぁ~」と思ってチャンネルを変えていたような内容が、Webにもスライドしてきたという感じです。
普及してゆくと、メディアはそうなる傾向があるという 歴史をなぞっているのかも。
今まではパソコンを扱える人に限られていた世界が、スマホ・タブレット・ネットワークテレビ等、操作が簡単に覚えられるデバイスが広まる中で テレビと変らない気軽さで利用できる用になった。ほんとうに「誰でも見られる、使える」ものにようやくなってきた。それは全然悪いことじゃないけれど...
流れる情報が「清濁を併せて飲む」傾向がどんどん強くなってきて、その中から自分にとっての「清」を探し出す労力が大きくなってきてしまった。
例えば広告を載せたり宣伝記事を書いてお金に替えられる仕組みが出来てしまったら みんな人はそっちに流れるもので、仕方ないのだろうと思います。
(ちなみに私がこうして書くものは何の収入にもなってません。ホントただの道楽です!)
何かとネット発のものって、マスメディアと対立させて語られてきたけど、そんなにかけ離れた世界じゃなかった。
そりゃそうだ、どっちも人間が作る世界だもんね。
Wikipediaや、刀剣というジャンルで言うと 某・幻想辞典などの事典サイトがあるけど、あそこに書かれていることも 知る取っ掛かりになっても鵜呑みにしてはいけないと思います。
校閲が甘いのは否めないし、間違った知識が修正されないで放っておかれて、それが拡散してしまう・・・という問題がありますよね;
自分の子どもが「だってwikiに載ってたもん」って言い出したら叱るなぁ...「その前に図書室を使い倒すんだ」と、教えないと。
先生がレファレンスサービスを詳しく教える時間がとれない、というのも一因かもしれません。
自分たちも、情報をそのまま信じない(そして広めない)心構えが問われますが、それらが当たり前にある世界で、子どもたちにどうリテラシーを身につけてもらうか? というのも、課題になってきますね。
書店でも図書館でも、リアルなモノとしての書物には触れておいたほうが良いと、古い人間と言われようと私は思います。
「今は興味ないかもしれないけど『世の中にはこんなに本がある、こういう本があるんだ』ことを知ってる体験」というのは、特に子どものうちに出来るとすごい財産になる。
自分が生まれるはるか昔の人々の考えていたことの蓄積に触れられる。遠くに旅行は出来なくても、ページを開けば知らない世界に、時空を飛び越えて行ける。実際に図書館は、家や学校に居場所がないような時の逃げ場所にもなります。
知りたいことだけを決め撃ちで知るために使われるネットよりは、ムダで遠回りかもしれないけど、無くしちゃいけない場所だなって思います。
広いようで、最初から「興味のないものには、つながりようがない」世界だなあ...と最近、Webに対して感じて仕方ないのです。
特にSNSのおかげで ひと・個人がつながるツールとしては、まーだまだハチャメチャ有用で、楽しい場所だと思ってます。
(やたら個人情報を明かさないとか、信じてフトコロに入らせないとか、向うに居る相手にも感情があるのを忘れないとか そっちはそっちで最低限のリテラシーは要るけどね)
ただ20年位前に想像していたような「古今東西の叡智が巨大な図書館になってネットの世界に建てられ、誰もがそれを便利に使える」ようなユートピアっぽい未来にはどうやらならない...ということがわかってきて、それは少しだけ残念に思うのでした。