ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

「かわいさ」について。

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ミケコさん ←飼い主のおばあさんとお嫁さん? がそう呼んでいる猫

ご近所で飼っている猫や犬を撫でさせてもらったり 写真を撮ったりしています。かわいいな、と思います。

でも自分の家で、人間以外の生き物と暮らしたいという気持ちは起きません。娘にねだられても、断っています。今のところ。

 

かわいいものとは つまるところ「私より、よわいもの」です。

 我が意のままに 相手の生きる死ぬの決定権を決められるほど、圧倒的な力関係の偏りがあるものに対して 私が強い者の立場にある時 その対象を「かわいい」と感じます。

私に向かって「かわいい」と言う人たちが、過去にいました(どちらかといえば男性に多かったです)。その人たちは、私が自分の思うことを口にしたとたんに「そういうことは 常識的に言わないほうがいい」と戸惑っていました。

この小柄で肉体的なちからがなく、腕力でねじ伏せようと思えば、いくらでもそう出来る「かわいい」もの = 私が ハッキリした意志を持った者として しゃべったら、「かわいい」から「かわいくない」に変わりました。思うようにならない生き物だったことを突きつけられて、彼らは 扱いに困っていました。

やがて、彼らは もっともらしい「おまえは○○だから、一緒にいられない」という理由を見つけて 別れました。私は彼らの思う「かわいがれる」枠の中には、残念ですが収まれませんでした。

 思い通りにならないもの、独自の意志を見せる相手に対して、ひとは「かわいくない」と思うことがあります。

自分に生きる糧(食べるもの・寝る場所)を委ねたり、絶対的に信頼を寄せて、甘えてくるもの。その状態を疑わないものに、ひとは「かわいい」と思うことが、多いです。相手の生殺与奪を握っている状態は 快感です。

「かわいい!」と思う気持ちは 支配欲(思い通りに相手を操れる欲、自分の望むように行動してくれるのを期待する心)と密接に繋がっていると思います。

だから対象が 自分の思うようにならなかったとき 勝手にガッカリしてしまいます。

私は出来るだけ 支配したい気持ちを手放したい。三次元の世界の身近に、かわいい対象を増やしたくない。

共に暮らす生き物は 自分が産んだ子どもで十分です。その子どもですら 油断すると「自分の思い通りにしたい」と願ってしまって 思い通りにいかず、カンシャクを起こすような 虐待に至りかねないことを、繰り返してしまうので。望んでかわいいいきものを、家族に迎えることは出来ません。

犬や猫などの動物は 人間の子どもと違い いつまでも人間の言葉を話せません。

子どもたちが だんだん対等な会話の出来る、ああしたい・こうしたいが言い合える相手に育ってきて、ほんとにホッとしました。彼ら・彼女らを「養う生きもの」として見なくて良くなった。かわいくなくなってきたかわりに 話が通じるものとしてつき合えるようになったのが とても嬉しかった。

人間じゃない生き物は 他の世界を知り、育ての親の知らないことを学び、家を出て行く選択肢が、ありません。

それをいいことに 思うようにならなければ いじめてしまい、人知れず葬り 土に埋めるだろう、と思います。かわいいものに かわいいというそれだけで 無償の愛情を注げる度量がありません。いつでも私は「預かった命、死なせてはいけない」という 責任の重さ、プレッシャーにただ喘ぎながら 条件付きで愛しています。

 

猫を撫でながら その猫の首を捻って殺すことを空想する人間に、猫は飼えません。

子どもの寝顔を眺めながら その子が私に殴られて息絶えている姿を想像する人間には。

 

生き物は癒しになりません。私にとっては。