ドアの猫穴

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『人徳の研究―「水五則」に学ぶ人間の在り方・生き方』を読みました。

『人徳の研究―「水五則」に学ぶ人間の在り方・生き方』を読みました。

 

少し前ですが 私がある時ネット上で、ポツっと「重くはないけどずっと抱えてる悩み」と言えばいいのか...

SNSと身の回りの理不尽に思ったことを書いたとき、ある方から「それについてずっと取り組み続けてるのは、仏教かもしれないですね」と教えていただいたからです。

そして 松原泰道氏という臨済宗僧侶の方の本が入門には良いと思う、というのも同じ方に教えてもらいました。

松原師の著書を検索して眺めていたら、なんと私の推し武将である黒田官兵衛様の名を冠した本があるじゃないですか...!

これは何かの縁と思い、買い求めたのがこの本です。

 

『人徳の研究―「水五則」に学ぶ人間の在り方・生き方』

 

水五訓』『水五則』は、身近な「水」の性質から得た人生訓の文で、学校や職場などで読んだり聞いたことがある方もいるかと。

私もどこで耳にしたか忘れましたが 何となく知ってました。

少しずつ文体の異なる内容も伝えられていますが、下に引用します。

 

水五訓

 

  • 一、自ら行動して他を動かすものは「水」なり

 

 

  • 一、障害に遭いて激し、その勢力を百信にするは「水」なり

 

 

  • 一、常に己れの進路を求めてやまざるは「水」なり

 

 

  • 一、自らを潔うして他の汚濁を洗い、しかも清濁併せ容れるは「水」なり

 

 

  • 一、洋々として大海を満たし、発しては雲となり雨と変じ、凍っては氷雪と化し、しかもその性を失わざるは「水」なり

 

水五訓 - Wikisource

 

表紙イラストの通り、この水五則を作りそれを自らの則として生きたと伝えられるのが、黒田官兵衛<如水>だった。

...もちろん「と、伝えられる」です。他にも 老子太田道灌王陽明作などあちこちの知識人の作とされることがあり、まさに「※諸説あります」という文です。

水の状態変化を示す語句からしてもっと新しく昭和になってから作られたものという見方もあります。事実に近い出所は『作者不詳』ということですね。

 

 

そんなルーツはアヤフヤな水五則についての解説書ですが 読んで良かったと思ったのは、よくある「戦国武将の人生や教訓はビジネスに生かせる!」みたいな、ターゲットをしぼったコンセプトではなかったことです。

一般に、「人として望ましいありかた」を教える道徳、また「リーダーのあるべき姿」論として読まれがちなこの文を もーちょっと深く掘って

とくに仏教者の視点で スポットを当てている、と思いました。

説法に定評のある僧侶の方が仏さまのおしえに沿って読み解けばこんな導きが引き出されるんだなあ、という内容でした。汎用性が効く、といいますか。

水や自然自体に不思議な力があるとか「水に語りかけるとナントカ」のような、オカルトめいた解釈はありません。誤解されがちだけど、仏教はそういうのはしない。

水は水、心も意志もない物質。そこはゆめ忘れるな! という念押しも感じられました。

 

表紙に黒田如水の肖像を載せつつ、官兵衛(如水)様に割かれているページ数は そんなに多くないですw

でも官兵衛様の他にも多岐にわたるジャンル、有名無名の「水五則」にあらわされれている徳を持った人々(芸術家、政治家、ジャーナリスト、他宗派・宗教の指導者、一般の方まで)が例に挙げられて、ほとんどが知らない話でしたので、生の説法を聞くようにおもしろく読めました。

 

個人的には 官兵衛様の史実の人生から思い浮かぶ「水五則」は

四番目の「自らを潔うして他の汚濁を洗い、しかも清濁併せ容れるは『水』なり」でしょうか。

境遇として、小国の家老だった頃も、天下人秀吉の相談役になってからも「頼りにされ用いられ」ながら、同時に「切れ者すぎておそれられる」という理不尽を味わっています。

後世語られるようになったイメージとしても、

領民の命や財を大切にし、清貧で困っている人を助け、分け与え、もてなして楽しませるのが好き...という潔いところと、

軍略では 戦わずして降伏するように仕向け、最小の犠牲で最大の戦果をあげられる策を練る、いわばズルく汚いところと「清濁」の両方を併せて持つ人として知られていると思います。

そして最晩年には、あのとおり「わがまま」にふるまい、ここまでだと時を読めばスッパリと天下取りへの執着を手放せる...という、勝負師の顔もあって

ひたすら真面目で律義であったわけでもない...という複雑さがあります。

その「複雑に様相を変えるが、どれも一人の人間の中にあって共存している」ところも、水五則の 五番目と重なります。

どれも自らでそのようにしていて、時代や状況に「流される」のではなく自らが「流れとなり流れる道をつくる」自覚を持って生きていた、そういう生き方をした方であったように、思います。

 

書き忘れていましたが 松原先生が述べているのは「水五則は、水が持つ『徳』をあらわしたものである」ということです。

仏教のことばで「徳」とは何かというと シンプルに表せば「そのものの持つ機能・はたらき」のことです。

また、ものの本質を「体」と呼び表し、本質が表に表れたことを「用」と云います。

花木が育ち、花が咲き実を付けるのは花木の「用」です。「徳」も「用」もどちらも ものの「はたらき」です。

 

じゃあ、人間も自然の一部だけれど、人間の持つ「徳」って何だ? というと 「他のものが持つ徳から、学びとることができる」ということ。

身の回りのあらゆるモノゴトは、そのものの本質が表れたはたらきをしているのみで、

何を学び取るかは、人のがわの「徳」によるものです。それが人間にそなわっている機能、「人徳」なのだ、と。

水は特に、人の内にも外にもありふれた身近なもので、さまざまな姿を見せるので、

古今東西哲学の道・ほとけの道の人々には 学べるところも多かったのでしょうね。

 

それで、この本を読んで改めて思ったのですが 私は黒田官兵衛(如水)の「人徳」を、学びたいと思いました。

歴史上に生きていたという点で 同じ人間なのだから。

せっかく「好き」というキッカケをいただいたから。少しは「近づきたい」と思うのです。

「あこがれ」ではなく「自分に生かしたい」と思いました。

「かわいい、ああしてやりたいこうしてやりたい、こんな姿がみたい」と妄想するよりも

強く「こうなりたい」という尊敬の気持ちが湧きました。

そういう感覚でとらえる、趣味での「好きになった対象」は、今までいなかったかもしれません(現代の著名人では、なぜかいなかったですね...)。「『好き』の理由は? なぜ私はこの人が好きなのか??」と分析するのは オタクの「徳」というか(笑)習慣的にやることだろうな~、と思うけど、もうちょっと踏み込んで「その良いところを、自分に取り入れられないか? 私を喜ばせてくれたものを、ちょっとでも分けてもらえないだろうか。」と考えます。

もちろん当たり前に 史跡に行ったり関連作品に触れることで、元気や楽しみをもらっておりますが!

過去・現在含め 同じ地上にいる人を「神」と呼んで 高いところにあげることが 好きではないのです。崇拝と尊敬は、自分にとっては違います。

「あんなふうに生きたい」と マネしてみることが、自分にとっての愛情表現なのかな...と思っています。えらそうですが...

 

自分の「こうありたいファン心理」と 仏教での「人徳」が 偶然にも重なる部分があり とても発見がありました。

 

私の(ささやかな)悩みの、ストレートな応答ではありませんが すごく、ヒントを頂いたように思いました。