ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

笑うもの、笑われるもの

やっぱり、自分より「下の人」を設定して その人のやることを笑うお笑いのネタは苦手だ。つくづく。

一般常識だと見なされている事を知らなくて、トンチンカンなことを言ってしまう人を、そんなことも知らなかったのか!と笑うことや。

なぜか若い女の人だけをつかまえて家事をさせてみて、まったくできないのをさらし者にすることや。

「ひとを見下して笑いたい、自分のほうが優れてるって確かめていたい」欲求はある。もちろん私にだって。ないことには出来ないです。

バカ属性を付与された人を「この人のことは、そういうキャラづけだから、笑っても良い」と設定して

笑うのをおもしろいと思う気持ち、「自分たちはアッチ側じゃない」という一体感。

それを反映する形でいろいろな番組として企画して作られることも、あるんだろうなって。

でも自分は出来るだけ「みんなで渡れば恐くない」的に その見下したい欲を解消することには、参画したくない。

「観ない」っていうことでしか、意志は表現できないけど。

自分のいやらしいところには、自分で向かい合いたい。

最近「欠点を笑う」お笑いや、容姿や教養の差、男女の差を「いじる」お笑いに対して異を唱える事ができるタレントさんもいらっしゃって

その人の意見を支持する視聴者も 一定数きちんと居ることが、SNSなどのつながりに寄って見えるようになって来ました。

「こういうの当たり前だと思われてるけど、実はおかしくない?」という歪な部分が 少しずつ共有され始めてるのは、きっと良いことだと思っています。

同業者の中から「それはおかしいよ」と言える人によってイジリ芸や罵倒芸のような自分の行動を「それが視聴者からも求められている」とか「自分は影響力がある」と錯覚する人が いなくなればいいなと思います。

まだ、過渡期なのだろうけど。

じゃあおまえが許容できるおもしろさって何だよ、と問われると。

自分にはとうてい出来ない、高い境地に達した人の芸を、尊敬しながら楽しめる娯楽が、いくらだってある、と思います。

古典芸能だけじゃなくて 漫画もアニメやゲームも含めてそうだと思う。

「高尚なものだけを残せ、くだらないものは規制しろ」と言いたいわけではなくて。

「この笑いはもしかして、誰かの我慢や 傷つきの上に成り立っていないか?」と想像したときに。

それをわかっても、刹那の気晴らしのために 他人を笑うことが必要な人も、まあ、いるのだろうね...と。

笑われたり貶められるがわになった時に よく励ましとして言われるのが「聞き流せばいい」「気にしないで」だけれど。

何かを人並みにできない劣等感や恥ずかしさを植え付けられて またさらに、何を言われても受け流す心のしなやかささえも 要求されなければけいないのでしょうか。

ましてや相手が複数だったり、もはや何人なのかも、どこから私を見ているのかもわからない、匿名のナニかだったら。それでも、流さなくてはいけないのですか。

やはり「まずは、指差すのをやめること」のほうが先だと思うのですが、「変わりなさい」とアドバイスされるのは どうして言われている側なんでしょうか。

...すいません、つい 個人的な思いが出てしまった。

まとまりませんが、そんなことを考えました。