ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

自分を閉じ込める言葉のちから。言葉という宝物に埋もれて窒息しそうなはなし。

すっかり晩秋だけど息子は部屋にいます。家にいる限りは ご飯は食べ、動画にあわせて元気に歌を歌い、家族とふつうに会話しています。学校に行こうとすると玄関で息苦しくて気持ち悪くなり、動けなくなるとのことです。

高校のスクールカウンセラー精神科医ソーシャルワーカーのもとに足を運ぶ(病院以外は私1人でだけど…)日々です。

 

そんな息子と、私にもからめてのことなんですけど。

「言葉にできる人って、いっけん頭がよさそうだけどメンドウだー!」 ということ。

息子が口癖のように使う言葉が

「意味がない」「意味がわからない」

です。学校も行く意味がわからない。勉強もする意味を感じない、と。

私も(母親なのに) 学校や勉強のほかにもさまざまなことが 「意味がわからないな」と思ってます。彼と同じ年頃もそうだったし、いまだにそう。

しょっちゅう「何もかも放り出したい...消えたい...」とすぐなります。好きな事をしているときですら 「これ意味あるのか」「べつに私がしなくてもいいことだよな」と、いう思いに囚われて動けなくなる時があります。

息子の「意味がない」にも、『意味がない』は、やらない理由にならない!」「生意気な口を叩くな、つべこべ言わずやれ!」とひっぱたくのが、親らしい行動なんでしょうが…

「わかる~!!」というのが本音です。

 

「ああ、こういうめんどくさい人間は力づくでは動かせないなあ」というのがわかってしまうんです…。

カウンセラーや、児童福祉課の担当の方などは「そういうお母さんでよかったです、息子さんはとても安心できていると思いますよ」と励まして下さるのですが…ええ…いいのかな。っていつも泣いてしまって...。

それをつぶやいたところ、匿名メッセージを下さった方がいらっしゃいました。

最初に、何も結論的なものはないことをお伝えしておきます、悪しからず…
「意味ない」も「死にたい」も、なにか本質ではなく言葉上でもやもやされているように感じられています。
日頃、まず脳みそに思考や感情が発生して、それを言葉を使って表現しているように錯覚しがちだと思うのですが、
思考については実際は、言葉が先行して言葉に支配され引き摺られていると思います。 「揚げ足取り」みたいな会話を思い浮かべると実感がありますかね。
私は子供の頃、やりたくないことについて、「どうしてやるの?」=「これをやることの意味は何?」となっていたと思います。
(つまり「意味を知りたい、意味があればやる」ではなくて。)
やりたくないのに強制される場面って、子供(特に学校)にはすごく多いですよね…でもこれって今となっては当然のことで…
自立すれば仕事でも勉強でも「自分で選択してやっている」という側面を突き付けられ、それに付随する事柄たちは、やりたくないことでも、自分で選んだことをやるために致し方ないこと、と受け止めざるを得ない。 しかし誰かしらに保護され養育されているという状況では、ある意味すべてが自分で選んだことじゃないっていう、謂わば思考の逃げ道があったと思います。 そもそも学校自体、自分の意志で通うのではないから、それに付随して発生する、やらなければいけないことは、「致し方ない」と感じるのが難しいんだと思います。 子供のときでも、自分がやりたいことは、やる意味を考えることはなかったと思います、
やりたくないからこそ、やる理由=やらないでいる正当な理由を、言葉で探していたと思います。
ぐうの音も出ないような理由を誰かが提示できれば、納得できてやろうと思えるのかというと、そうじゃない。 「やりたくない」の気持ちは変わることはなく。
「意味がない」からじゃない、やりたくないから、やらないでいる大義が欲しい、「やらない」を肯定したい、されたい。
「屁理屈こねるな!」と親に一蹴されて終わっていたと思います、 その当時は何時か論破してやる!みたいな気分だったと思いますが、
今では、親の言葉は本質をついていたのかもしれないと思います。 長文で、何も実りのない話ですみません!

先ほども送らせていただいたのですが度々すみません(内容はさほどリンクしてません)。
私は学校に行きたくないと思うことはなかったのですが、一生勉強し続けたいと思うくらい面白い内容が一つあったというのが、その原因の中の一つかもしれません。
それがなかったら学校をどう感じていたか分かりません。
そして、それに出会えたのは学校に行ったからこそだったのかもしれません。
高校辺りからは、それを学ぶためには親に費用を出してもらうしかない、そのためには親が了承してくれる学校に行くのがベスト、という思考回路だったような。
ずいぶん打算的な子供ですよね。特定の欲を満たすためなら他のことを捨てられるということなんでしょうね。

未だに学校に行く(本質的な)理由は分かりませんが、学校だからこそできた、知れた、分かったことは、山のようにあると思います。少なくとも学校にメリットはあると。
でもそれは何十年も先になってようやく思ったことで。
それを既に知っている人が「ここに行っておくと後々役に立つので強制しよう」「悪いことは言わない、騙されたと思って行っておきなさい」というのが、制度なのかなと。
良かれという発想なのだけど、本当は他にもやり様はあって、たくさんの選択肢を用意するのが最善なんだろうと思います。
そうなら、強制されるべきものではない…行きたくない気持ちは、本当は社会から尊重されるべきだと感じます。
学校に行かない状態が世間に対して肩身の狭いことになってしまっているからこそ、その先の色んな(本人だけでなく家族の)マイナスにつながってしまう、という気がします。
本当は良くも悪くもないことだと思うんですよ。

ユニコーンに乗って」はご覧になっていますか?
ネットに学習空間を提供するユニコーン企業を成功させようとするお話です。
実際はあんなにうまく運ぶものではないんだろうと思いますが、インターネットという手段が普及したのだから学校の意味は変化していってしかるべきだと思うし、いつまでもとらわれる必要もないと。
何か…悩む人って、言葉に長けているからこそのような気がします。
言語表現が苦手な人(家族にいるんですが)って深く長く悩むことがないような。
つまり言語野が発達しているからこそ悩むという行為が生まれてしまう…に過ぎないのかなっと 笑。

取り越し苦労とか悲観的になるとか被害妄想とか...それらは「なんでもかんでも言語化できちゃう能力」に、由来してる。

考えたこと→言語化してるんじゃなく、「知っている言葉に当てはめて」考え、それに引きずられて行動を決めている!

これすごい、するどい! ってピンと来ました。

 

私もつらいとき頭の中に「つらいつらいつらい!」という文字がミッチリ詰まってる映像が浮かんでしまいます。診断メーカーのはしりで「脳内メーカー」って昔はやりましたよね、あんなかんじで「ツラい」が脳を占めているのが見える。もうひとりの自分が寝てる以外の時間はひっきりなしに「おまえは今こうだな」って頭の中でしゃべっている。

文字があると説明書でも何でも読んじゃうクセがある子どもっていますけど、どんな気持ちも文字にせずにはいられないクセがある人も 世の中にはいます。

フワ~っと未処理の感情をそのままにしてる人も(たぶん)いっぱいいるけど、ひとの頭の中はわからないから知りようがない。

とにかく孤独に、頭の中に溢れる言葉という宝物に埋もれて、窒息しそうな感じ。

「思ったことを言葉にできる」ことは「良いこと」「これからの社会で大切なこと」と評価されつつある。うらやましいって言われることもある。でもそれいつも「創造的」なほうへ働いてくれる能力だろうか...? 

息子が自分のやることなすこと 「これは意味がない、これをする意味がわからない」と断じて、扉を閉ざしてしまっている気がして。物理的に部屋に引きこもってるのと重なっていて。言葉の檻を作って閉じこもって言葉で編んだ縄で自縛している様に見えて。

それをつきつめていくと そりゃ「生きてる意味なんてない」 に行き着くじゃない…。息子はとっくにそこに思い当たってる。

いまは安定してるけど、窓から飛び降りようとした事もあるので。

「自分自身の言葉に責められて、疲れ果てて動けなくなったり、命を落とすことすらあるかもしれない。」と、思いました。

 

言葉って自分に語りかけるばっかりじゃ機能しないんです。グルグル同じところを廻り固定観念を強化するばかりになる。自家中毒を起こしちゃう。

孤独が危ういのは、一人問答の中で思考が過激に、先鋭化していくことです。それがあふれて外に現れると 自傷になるかもしれないし、他害になるかもしれない。誰かとやりとりをし語りあうことで 初めてきちんとはたらいて、血液のように循環して 心も呼吸が出来るようになると思います。

諸刃の剣って言ったらかっこよすぎますけど。人間関係を閉ざしたり自分を傷つけることもある言葉の力を使いこなすには、使い方を習わなくては。それは一人では出来なくて、もう、人とたくさんかかわって自分じゃない考え方を取り入れて、失敗を繰り返しながら磨いていくしか。

(作家やライターなどの言葉を扱う職業に就いた人の中には、放っておくと言葉が自己破壊の方向へ向かうから、そうでない方へ自分を導くために、訓練を積んでたどり着いた方もいらっしゃるような気がしています。親が「文豪って、なんかすぐ自殺するよね」と笑っていたけど、そのくらい命がけで言葉と対峙せざるを得なかった人が名作を生みだしたんだと私は思っています。

言葉を作品なり仕事なりに結び付け、社会に出し、ひとりぼっちの言葉でなくしていくのは世の中の為にもなるかもしれないけど、まず書く人にとっての命のよすがなんだと思います。)

 

nekoana.hatenablog.com

「あなたは・私は、こういう経験をしてきてこれこれこのような傾向があって、こういう性格だね。」

「ものごとにこんなふうに反応するね」ということは 言葉でつかめます。

「これまで」 を表すために言葉は有効な道具だと思っています。毎回のカウンセリングでしていることです。

 

だけど 「これから」 をつくるには 「うごく」 が必要で、うごくにはいったん言葉のはたらきを「オフ」にして、自分を見も心も丸ごと投げ出すような、エイヤ!!っと「いきおい」「衝動」にまかせた 「うごき」が必要なんだと思います。

それは身体的(例:運動する)にだったり、場所的なもの(例:出かける)だったり。なんか、頭以外の身体パーツと五感を使うことかな。

物体が静止状態から始動するときには大きなエネルギーが必要で、動き出せば慣性がはたらくように。いちど止まって考えるよりは、何かしながら・動きながら考えるほうが 実はカンタンに変化できる。

こころや考えてることって見えないし、ある、ということは自分以外の人に証明できないものだけど、この世界のしくみの中にあるのはたしかなので、意外とそれらも物理の法則にしたがって動いているのかもしれないです。

学校や仕事に行けてる状態というのは意志が強いわけでも意義を感じてるわけでもなく 「惰性」、 ってことが多いと思う。習慣はばかにできなくて、ほとんどのことは惰性で動いてる。

メッセージを下さった方がおっしゃるように、子どもは自分で選択できる広い見識もなく、まず大人が「これはやりなさい」というのをとっかかりに、新しいことに触れていくのがほとんどで。その最たるものが学校教育で。

そこに「なんで?」とリクツで引っかかっちゃった人間は 惰性に乗っかれずに苦労してるんだなあ…と思いました。良い悪いではなく、ハードモードを選んじゃった、という感じがします。

私の親は「意味がどうとかじゃない! やるんだ!」と叱って引きずって動かしてくれました。「やりたくないことに理屈をつけているだけ」と、はっきり言ってくれる人がいました。

当時は傷ついたけれど「やってみたら案外できて、楽しいこともあった。出来ることを広げるられた」という経験も積めました。

息子にも「意味はわからないけどやってみよう」という経験を積んでほしい。というかそういう「何の役に立つかわかんないこと」を子どもたちがブーブー言いながらたくさんやる場が学校というところなんだけど、学校を利用しないで家族がその機会を提供するのは大変。生活と並行してやるというのは…

私も彼と根本はいっしょなので 母のように引きずり出すことをためらってしまいます。窓から飛び降りようとしたときのように、余計に心を閉ざしてしまうのではないかという恐れもあります。どうすればいいのかわかりません。

 

案外「なんでもやってみよう」「学校が楽しい」タイプの妹(娘)がいることが今後カギになるかもしれない。

同じ家庭に生まれても モノゴトに対する反応が全然ちがう娘が同じ親から生まれたことで「息子がこういう人間なのは生まれつきの性質なのだな。私の育て方のせいではないのかな。」という、ある種の逃げ場というか希望が持てています。

兄妹は仲が良いです。妹は決して引きこもっている兄のことを見下したり、しょうがないなあという目で見ていません。「やさしくて歌がうまい。お兄ちゃんはすごい」 と慕っています。娘は友達と出かけることも多いけど 家で兄と一緒に遊ぶこともあります。学校に行けないことを理解したうえで お兄ちゃんを好きでいてくれるのはありがたいです。

 

私もメッセージ下さった方と同じで 「大人が自分に求めてくるものと、私はこれやりたい / やりたくない、の妥協できる点、現実的な道を探る」をやってたな、とも思い。

すごくやりたいこと(絵を描く)があるから、その前に転がるめんどうなことは最低限必要なことだと言い聞かせて、どうにかこなして。芸術方面にいきたい、などと言ったら親の賛同(経済的な)が得られないと計算して、デザインの分野に進みました。親を利用するとか、ほんと打算ですよね…でも凡人はそんなものかもしれない…

息子は妥協できないんでしょうね。やったことがないことをする怖さと、失敗をとても嫌がる傾向もあるし。

困ったことに、言語化が得意な人ってわりとその...昔勉強では困らなかったとか、成功体験があって 「頭がいい」という自負がありますから、そうでない人、考えないで行動するタイプのやり方をどっか見下してて今さら受け入れがたい部分があるんです。さまざまな黒歴史

見下してることにも気づいてない。自分のほうが、「わかってもらえなくて排除された被害者だ!」って思いこんでたりして~。

その見下しをやめる! 排除なんかしてないし。違うタイプだからわからないというだけ。

ちょっと自分と違う人のことマネしてみて「言葉にしないほうが楽かも。考えないほうがいいときもあるかも。」と受け入れてみる。

なんにもしたくないときほど、なんもしたくないまま、かんがえないまま ことばも意味もぽいと捨てて「うごく」がいいと思う。

本当に理不尽でやらなくていいことと、チャレンジしてみたほうがいいこととの線引きはとても難しいですが…。

息子の「新しいことするのが怖い・失敗が怖い」という気持ちも汲みながら、でも自分の親の「とにかく動いてみろ」理論も またもっともだという...私はずっと「ハザマ」にいるなあ~と感じています。

 

なんだ、結局、りくつっぽくなっちゃった...

このへんでおわります。