ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

真剣だけど深刻にならない。

土門さんのつぶやきを拝見して。

 

深刻にならないことと、人に頼ること、なるほど~。と思いました。

私がこちらを見て思ったのは

「傷ついてる私」ではなく「傷が私そのもの」ととらえないように ということですかね…。

「傷が私」、すぎて。傷ついてない状態の自分をイメージできなさすぎて。

癒やされたら、「私ではなくなっちゃう」ので、無意識なんだけど、癒す事を拒んで何度も何度も傷をむしり直すような、そうして自分を確かめる愛しかた というか…めちゃあったな〜!! と思います…。

 

私の傷は私だけのもので、大事なんだけど

「私にしかわからない! あんたたちになんかわかってもらえない!」 と ずっと叫び続けてると、傷つきが一生ものというか 「傷に乗っ取られていく」人生になっちゃう。

「わかってもらう」 のは、永遠にムリだと思う。他人は他人。そんな都合のいい相手を求めたら、そりゃいない。

でも「傷について語ることを、聞いてくれる人」 くらいまで要求を下げれば 「いますよ!」 と言える。

ひとが今までと違うことをやろう、変わろう と思える時って いちど怖さや不安、その他のぐちゃぐちゃを、「聞いていますよ」 と預かってくれる相手なり、よりどころが準備されてるかどうか だと思う。

ひとは不思議と、答えをくれなくても、真剣に聞いてもらった、と言うだけで、勇気がわいてくるように出来てる。わかってもらう必要ない、とさえ思う。

ちからは自分の中にあったけど、「きいてもらった」手ごたえが無かったから、存在にも気づかなかっただけなんだと思った。「ここにあるんじゃない?」と気づくために明りを灯してもらって、見つけるのは自分でやること。

今の自分がイヤだと言ったりとか ここヤバイ場所だから逃げちゃおう、ができるのは 「イヤと言っても平気だ」「逃げても取り返しがつく」という算段がつく、暗い中にも「道」があると知ってる、そういう経験と環境があるからだ、と思います。

いくら「脱出口はこの道だ」とわかっても 灯りもなく、脱出した先の見通しが立たない真っ暗闇にダイブするなんてできない。

既知の環境でガマンするほうを選ぶ、そのほうが安心だから。

それはそうだよね...。灯りが必要なんだ。

癒されて変化した私も、ちゃんと私なので、生きていけるので。怖がらなくて大丈夫だ、と思えるかどうか。

こういう「安心」を担保してくれるのが、秘密を保持して聞いてくれるカウンセリングで、話すことのちからだと思います。

 

nekoana.hatenablog.com