ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

最近のいろいろ

あちこち痛くて(特に治りが悪いのが腰と背中。あとはおなか中に広がった皮膚の炎症)。どれも家族の用を優先してしまって治療にかかれず、つらくて疲れていますが、何か、書きたいなと思います。

 

沖縄にある世界遺産の中核を成す 首里城の正殿が、失火で焼け落ちてしまう映像を、呆然と観ていました。

首里城は2回行ったかな? 最初行った時(平成ヒトケタ年のころ)まだ工事中のところがあったし、守礼門は直したばっかりだ、とききました。

 

かつて起こった、金閣寺の放火・焼失の件が、「滅びの美学」とか 美談的に伝えられるのは 後に金閣寺がちゃんと再建できたことで、失ったものを完全ではないにしろ「回収」できたから言えることであって。

今の時点で、首里城の焼失を 同列に語る人に対しては...少なからず、怒りを感じます。まだ物語として消化するには、早すぎます。

 

「燃えてしまったもの、失われてしまったものは、二度と戻らない」

「出来たとしても、それはかつてと同じものではない」

という事実には、向き合わなくてはいけない。元々復元したものだったのだからまた建てれば…とは安易に言えない。

 

もちろん「失われたままでよい」ということではなく、まず火災の原因はシッカリ解明されてほしいし、出来ることには協力したいです。

 

このところ立て続けに起きた災害からの復旧・復興に関しても、感じることなのですが。

日本はその、金閣寺を建て直せたような時代よりも「有事から復活するための余った力」がなくなっている、と思います。

 今回燃えた首里城の復元を始めた時点でも、あの宮殿の柱に使える木材が国内にはもうなかったので、台湾から運んだそうです。

 

9月の台風15号で壊れた家々は、ブルーシートをかぶったまま修理を待っています。

 

 

「たてなおす」物的・経済的資源も減っているし 知識と技術を持った後継者が 数も質もいません。何事も起きてない、非常時でないときに、コツコツ育てて備えていくものなのに、それをしてこなかったツケが回って来ているのではないかと思います。

 

ふだん「役に立たないもの」「余ってあそんでいるようにみえる領域」「見えにくい余裕」が、「受け止める器」として機能しているのを、家の近くの広々とした河川敷がある川が、氾濫しそうなギリギリで持ちこたえた映像を観て、ひしひしと感じました。

 

台風19号で大きな水害が予想された都心の海抜の低い地域でも、堤防のほかにも上流域のダム建設や放流システムを駆使して助かったエリアが多くあり、それはまさに「備えがされ、しっかり機能した」ほうの、実例なのだと思いました。)

 

なにかをひっそりと支える「ムダ」「余裕」を持ちえなくなった社会は ゆっくりと衰退に向かっているのかな、と感じる秋です。

 

あと単純に 災害のニュースに長く接していると、無力感、「私はなにもできない」という自分を責める気持ち(感じたってどうしようもないのに)を、感じるようになり、たいへんに疲れてしまう...ということがよくわかりました。