あの番組のおもしろさを語るのに理屈なんていらない。そう言ってしまえばそれまでよ。
でも。水どう好きな人は理屈っぽい人多いでしょ(笑)。バラエティ番組はくだらないから観ないけど、水どうだけは別格っていう人多いでしょ。
そういう「何で水曜どうでしょうだけは別格なんだろうね?」っていうのを、ちょっと理屈っぽく考察してみたい人にはすごくオススメしたい本です。
著者の方が水どうのファンだというのはもちろん、臨床心理士で、カウンセラーとして仕事をしていて、心理学の観点からプロデューサーの2人の話を聴き、そのインタビューを分析する、という本の「なりたち」と言いますか、手法に惹かれて購入しました。
藤やん&うれしーがしゃべってることはDVDの副音声や、すでに出ている水どう関連本とかぶるところもあるんですけど、聞き手が違うと見えてくることも違うんですね、っていう。すごくおもしろかったです。
ざっくりまとめると、水曜どうでしょう という番組内で展開する物語の構造は、
出演者がドタバタする場面を視聴者が「観る」のではなく、一緒に「体験する」ような気持ちになれるようにしかけがされている。
観る側と観られる側の対決関係というか「境界」が、気づかないうちにボンヤリしている(撮る側と撮られる側の境界があいまいなのは、観ててよくわかるんですけど!)。
だから水どうを観た者どうしは、同じ番組のファンというより「旅の仲間」として、ともに旅した思い出を語っているのです。
確かにそうだなあと。名セリフを連呼するだけで笑いあう、あのミョーに楽しい内輪感・連帯感に、それが表れていると思います(笑。
ワタシが特に興味を惹かれたるのは嬉野さんの言葉群です。何となく「嬉野さんは自分と同類なのかな」と勝手に思いました。
内向きというか「俺は何をやってるんだろう、どうしてやってるんだろう?」ということをつい考えちゃう。そんな面倒なことを考える人は、まあテレビ屋さんとしては敏腕ではないと思います(笑
そこをうまく発掘して持ち味を引き出したのがズカズカ人のふところに入り込むのを得意とする藤村さんで、そういう外向き&内向きコンビがうまく両輪になってるんだろうな。
水どうを水どうたらしめているもののひとつが、嬉野さんの(大雑把に言うと)「去るものを追わない、かつ、『そこにいない』人も撮る」「ちょっとやそっとの事件ではゆるがない、動かない」カメラワーク・フレームワークであり、そのフレームワークは嬉野さんのものの考え方とらえ方から生まれてる。
もし大泉さんを使って似たようなノリの番組を作ろうとしても、嬉野さんが撮ってないと、きっと観た人は何か違うって感じると思う。
いかに大泉洋が天才でも、彼の才能のみで成り立ってる番組ではないんだ。水どうの大事な「芯」「下地」の部分を担ってるのが、嬉野さんなんだ。
とても水どうっぽい「画面の景色」って、車窓の景色がダラダラ流れてて、出演者は誰も映ってないところに藤やんのバカ笑いなり洋ちゃんのボヤキなりがかぶってその字幕が出るところですよね。(かの名セリフ「おい、パイくわねぇか」もそのパターン)
あの車窓からの眺めも、誰に言われるでもなく嬉野さんが撮っておこうと思ったのを編集でセリフと組み合わせたら、何かこみあげてくるおかしみというか、オモムキがあったわけで。
うれしーの感性、不思議ですねー。水どうの一行にうれしーがいてくれて本当に良かったし、その不思議な感性が埋もれずに発揮されて良かったなあ、とインタビューを読んで思いました。
また、著者はカウンセラーと言う仕事の性質上「水どうを観るとホッとするのはなぜか」という観点からも書いているのですが、その話もすごく良かった。
じっさい、カウンセリングの現場で(クライアント-カウンセラー間でも、研究者の間でも)この番組が話題にのぼることも多いのだそうです。
その章はどうしても、ワタシの言葉ではまとまりませんが・・・。
たぶん、水どうの企画が
例え、サイコロ振って札幌に帰れなくても、オーロラ見に行ったのに見れなくても、八十八札所を回りきれなくても。
何ら当初の目標を達成できなくて企画としては失敗に終わっても、とにかくやたらおもしろかった! と感じることと、関係あるんじゃないかなと思います。
なんかドタバタして疲れ果てて、おまけに何も成し遂げなかったけど、おもしろかったなあ。
と感じるように生きて、そのように思って死ねたらいいなあ。と無意識のうちに感じてるのかなあ。
人生は旅と言うけど、まさに水どうは人生の縮図かも知れん・・・なんて。
繰り返しになっちゃうけど、そんなしちめんどくさいこと考えなくても、水曜どうでしょうは最強最高バラエティ番組です。
僕は一生! どうでしょうしまぁぁぁーす!! っということは訴えておきたい!