ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

肉親の死に際して考えた、とりとめのないこと

先週、祖母が急逝しました。

朝入院した時は父とケンカするほど元気でしたが、昼に容体が変わり

両親が到着してすぐ息を引き取ったそうです。

告別式と納骨を済ませ、斎場から実家に帰ると

(ワタシの家族のほうは通夜のみ参加し、子どもはいつも通り登園させました)

母が「核家族になった記念写真を撮ろう」と言い、黒服で親子5人の写真を撮りました。

母にとって、祖母の介護が終わった今日は、新しい「門出」なんだな。

両親がまだ2 人で旅行に行けるくらい元気なうちに、

この日を迎えることができてよかった、って思いました。

 

きっとこれが、我が家らしい悼み方なんです。

ただワタシ自身はとにかく「消耗した」というのが実感で。

家から送った祖父とは違って、ただ座っていただけなのですが。

 

祖父の死との大きな違いは、生前抱いていた感情の違いです。

祖父のことは大好きで、尊敬していたので、ひたすら悲しくてさびしくて、でも

「おじいちゃん、やっと病気から解放されて良かったね」という思いもありました。

 

親わしい人を送るより、反りが合わない人を送るほうが、心の整理が難しいものですね。

素直に涙を流せないので。

死者の悪口を言うことが非常にタブー視される日本の文化の中では

口にするのはつつしまなければならない事なのですが、

祖母の亡骸を前に

「あれだけ父や母を振り回しておいて、死ぬ時もほとんど苦しまずにポックリ逝って、

死に顔もこんなにきれいなんて、不公平だな」

というのが、ワタシの偽らざる気持ちでした。

すごく小さいころには、「おばあちゃんはなんでお母さんをいじめるんだ!」と憤慨していましたし、

祖母へのコンプレックスというか、周りは血縁として年長者として敬いなさいと言うのに

とてもそうはできない。

彼女がいなれば、父もワタシも生まれなかったという、覆せない事実が重くて。

親族から祖母に「顔も性格もそっくり」と言われるのが心底嫌で、

「何もしないで家にいたらばあちゃんみたいな年寄りになっちゃう! そんなの嫌だ!」と

いう気持ちでジタバタしたことが自立への推進力になったのは、間違いないです。

10代はとにかく「祖母と違う道を進もう、祖母が経験しなかったことをやってやろう」

と思っていました。

・一度は一人暮らしをして外で揉まれよう

・手に職を持って勤めて稼ごう

・伴侶は家ではなく自分のために見つけよう

・結婚しても子どもが出来ても、何かしら社会とつながっていよう などなど。

(でも今にして思えば、祖母がそれらを嫌がってやらなかったわけではなく、

生まれた場所と時代が、祖母に選択の余地を与えなかったのですよね)

 

それらを経て、どうやら反骨エネルギーを借りなくても済みそうなステップまで

たどり着いたところで、祖母は逝きました。

 

まったく、絶妙なタイミングだったと思います。

これからは進むためのエネルギーを、祖母への反発力ではなく

本当に自分の中から汲み上げてこなくちゃいけない。(もしかしたら母もそうかも)

間違いなく、大きな転換点を迎えたなあ、と感じています。