ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

作られる記憶、物語になる過去。

「インタフェースデザインの心理学」を読みました。

インタフェースデザインの心理学 ―ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針

あまりデザインと関係ないことがひかかかったのですが、「記憶は思い出すときに作られる」という言葉が、残りました。

(なんとなく京極堂が言いそうな言葉w)

以下、本の内容からはあさっての方向に迷い出て行く感想です。

頭のどこかに格納されている過去の記憶は、思い出されるたびに再構成されて、事実と違うのはもちろん

以前思い出したときとも違うものになっているということ。

そして当人には、思い出したときの状態が「事実」として認識されてしまうこと、など。

(著者が、ある出来事の記憶をそこにいた人たちと照らし合わせたところ、

その場にいないはずの人物が著者にとってはいることになってしまっていた例など)

つまりどんなに記憶力がいい人の主張であっても、それくらい曖昧なものであるということは

考慮に入れて話を聞いたほうがよいということでした。なるほどネ~。

フロイトが 若い女性の精神分析をしていく中で

「幼い頃に父親から性的虐待を受けた」 ということを告白する人が たくさん出てきたけど

告白と事実が違っていた例も、たくさんあったらしいんですね。

なぜ当時の女性が、揃ってよく似た「こころの現実」を捏造したか? というところを追求していく中で

その後の臨床心理学が発展していったそうなのですが。

つらいことを忘れたり、楽しい記憶に置き換えるならわかるけど、

はえてしてちょっとしたことを人生の大事件に膨らませて、悲劇にしてしまうことが多くて。

例えば

「いじめられたせいで人嫌いになった」

「親の愛情や保護が足りなかったので性格が歪んだ」

「こんな失恋をしたから異性が怖い」

・・・みたいな記憶のいくらかは事実じゃなかったり、他の要因もあったり、ハッキリした因果関係なんて

今となってはわからないことだったりする。

でも、なぜかそんなツライ方向に「物語」を作って、それを大事に「保存」している。

たぶん人間って 事実ありのままを覚えておくことってできなくて、

どっかで自分にとって都合のよい「物語」に作り変えてから、記憶しているものなのだと思う。

それはその人が識して嘘をついてるわけじゃなくて、「そうでなければ立っている場所が崩れてなくなってしまう」という

切実な動機が無意識に働いて、「本当にそうだったんだよ!」って自分に言い聞かせている状態 と言うのかな・・・

心って 「こうであるほうがしっくりくる、安定する」というほうを、

「事実」より「物語」を、信じるように 出来ているんじゃないかな。

どこかで「こうだったから、こうなった」という わかりやすい因果関係を強烈にほしがっていて

それを見つけると「だから私/俺はこういう人間になってしまったんだ」という

自分なりの納得の落としどころというか、安定を得た気分になれる のかもしれません。

とらえどころのない、納得のいかない本当よりも、わかりやすい悲劇の上の安定が心地いいのは 何となくそうだな って思います。

(もちろん本当に厳しい現実を乗り越えていくためのすごく楽しい物語だって、人間には作れるし、それも絶対必要なんだけれど。「赤毛のアン」みたいに)

きっとワタシも、そういう「都合のいい悲劇」を いっぱい作っているんだなあ・・・イタタタ

長文シツレイシマシタ。