ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

この春、記録はあるが記憶がない時間を生きてきた。

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ナニワイバラの花 好きだなぁ

新型コロナウイルス感染症による 「感染当事者ではない人間が、どんな影響を受けているか」について 膝を打ちたくなる記事に出会いました。

 

note.com

 時間意識の変容は、まず記憶の混乱として生じた。コロナ以前の記憶との距離感がつかめない。さまざまな記憶が、はるか遠くに感じられる。コロナ以降の時系列も曖昧だ。ダイアモンドプリンセス? アベノマスク? 志村けん逝去? つい最近だった気もするが、何もかもはるか昔のことのような気もする。いったい3月に、4月に、自分は何をしていただろうか。スケジューラを確認すれば「何をしたか」の記憶はある。まだ認知症の気はなさそうだ。しかし出来事の前後関係や距離感、いわば記憶のパースペクティブがどうもおかしい。フワフワして手応えがなく、のっぺりとして立体感がない。サイクルはあるがリズムがない。こんなおぞましい感覚は、いまだかつて経験がない。

 

「不要不急」を無くしたら、出来ることをしぼり、シンプルミニマルな精神生活が出来るか? と思ったら 生活丸ごと まるで砂みたいに頭の中から零れ落ちていって 「この2ヶ月、時間の感覚も無ければ、ハッキリした記憶もない...」という虚しさがある。わかる。

ひたすらにうすく、ノッペリと、日々が引き伸ばされていく感じ。おうち時間を充実させよう! という情報や提案も、むなしい抵抗に感じてしまう。

 

飲食店のCMは 散々おいしそうなごはんの映像をながしておいて端には「※テイクアウトでのご提供です」という注意書きがある。流行スポットやお出かけ情報を流す番組にも「※現在は休みです」というキャプションがついている。煮え切らない。

スタジオに切り替われば 出演者はそこにおらず、ばらばらの場所から顔だけが登場している総ワイプ状態。今までと同じ出演料が払われてるのかなあ、機材費通信費がかかるから相殺なのかな...などと考えたり。

 

いっぽうで 映画ドラマCMなど 過去に収録された映像について、ケンカ・会食・イチャイチャ…あらゆる「人と人とが近しく顔を合わせ、触れ合うシーン」を観るにつけ

それらの作品のほうがかつて「現実のまねごと」だったのに、いまや画面のコチラで失われた行為が、架空の世界ではおおっぴらに出来るんだなあ、現実のほうがSFだなあ、と感じています。

劇的に何かが起こったわけでもないのに 行動様式が「人と合わない・距離を取る」に変わるだけで ありふれたものの見え方・受け取り方も、変えられてしまいました。

 

とても不思議な感じがして、慣れない。だけど「ああ、これでもちゃんと成り立つじゃないか」と、気づいてしまった面もあるし、「これがあたらしい当たり前になるんだろうな」とは、思っている。

今の時代「現場に行かなくても知れる・出来る」ことって 想像してたよりいっぱいあるんだな、というのはとても感じる。

 

でもなあ、この「手ごたえ」のようなものがある時間、言葉にしづらいけど大切だと思える時間が、失われたままで耐えられるのだろうか、斎藤先生も「離人症」という病との類似を語っているけど、

強制的なキッカケを与えられたために 本当にこの病にかかるのではないか、あるいはもう発症してるのではないか。これからも正気を保っていられるのだろうか? という不安があります。

 

本当に、むずかしいですね...。

今こうしてここに書き留めておけば 「零れて落ちてなくなる」ことに 少しでも抗うことができるのでしょうか。

少なくとも 後で「あの時はこう思ってたんだ」と 振り返る手がかりにはなるかもしれません。

もしこれを 多くの人にリサーチして分析研究したいという社会学・心理学分野の方がいらっしゃったら、喜んで協力したいですね。