最近は花を見つけると写真を撮るようになりましたが、後で書くように、そうなったのは仕事がキッカケで、私は 花があまり好きではありませんでした。
『だれもがキレイと思うようなものを わざわざ私がキレイと思う必要がない』
という、ひねくれた思いがずっと昔からありました。
身近な花に意識して目を止めるようになったのは 3年くらい前から仕事で俳句の同人誌を編集するようになったことがキッカケです。依頼で、カット用の写真を撮り始めました。
俳句の仕事なので季語として頻出する花があり、それはしぜんに時季とセットで覚えてしまいます。教養と実益…と言っていいんだろうか?
自分で草花を育てたりはしません。世話を忘れて、多肉植物さえも枯らしてしまうからです。
よそのお宅の庭で育てられているものや家族が植えたもの、路傍に生えている野草の花を見るのも、だんだん楽しくなってきました。
特に、誰が世話をしたわけでもないのに 季節になればいつの間にか咲いている、畦道や耕作放棄地の、野の花が好きです。
写真に撮るのも、偶然通りかかった街角や道端に生えて咲いていた花です。
花を咲かせることは、植物にとって子孫を残すための手段、繁殖活動であって、人間を喜ばすためには咲いていないのに
それを見た人のほうが勝手に、愛らしいとか 美しいとか思う。季節を感じたり、それぞれの花の個性に応じて 花言葉のような意味を持たせたり、象徴や物語のモチーフにして表現に使ったりする。
私が藤の花の名所に足を運んだり、藤を見つけると写真を撮るのも、藤が黒田家の家紋のモチーフになっているからで、花そのものというより、そこに見出した物語を好いているのだと思います。
(戦国武将と花について書いた過去の記事もあるので、コチラからどうぞ↓)
感情を動かし、名前をつけたり、意味を見つけるのは 人間のほう。
人のほうに備わった「何にでも意味を見出してしまう」という 厄介なような不思議なような、本能にも等しい機能が 花や他のさまざまな自然を見ると、はたらいてしまうんだなあ と思います。
もし神様がいるとすれば、そういった「森羅万象に意味を見出す」機能を持って生まれてくるのは(いま知られている範囲では)人間しかいない...という点では ほかの被造物とは違う 特別な作品なのだろう、と思います。
そんなふうに、私は花を「リクツっぽく」「斜にかまえて」観賞して、写真に撮ったりしています。