ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

いい本にめぐりあえました・・・「置かれた場所で咲きなさい」

ツヤツヤ
プライムが最終回を迎えましたね。
なんだか遠い目になってしまう終わり方だったけれど、最後まで結局あまり夢中になれなかった自分が
後出しジャンケン的にアレコレ意見するのは控えたほうがよいだろうなあと。

話が変わって、最近勧められて読んだ「置かれた場所で咲きなさい」という本が、とても良かったです。ベストセラーなのでご存知の方も多いかと。
置かれた場所で咲きなさい
いただいた本なのでアフィリエイトは貼りません(笑)
著者のプロフィールについて詳しくは省きますが、人生の指南書や人の心について述べた本って
書かれた方がバックボーンとして何を負っているか、今までどんな人生を歩んできたか・・・によって、導き出される結論はほとんど同じでも
心にスッと入ってくるかどうかが不思議とまったく違うものだなと思います。
もちろん万人向けの言葉などなくて、恋愛みたいにそれぞれ相性があると思いますが
ワタシにはピッタリでした。読んで良かった! と心から思いました。
特に、心に残ったというか 「刺さったなあ」と感じたのは
「信頼は、98%。残りの2%は、相手が間違ったときの許しのためにとっておきなさい」
「文句や不平が多いのは、『環境の奴隷』になっている状態です」
という、2つです。

あとは、長い感想のようなもの。

『環境の奴隷』状態から、解放されること

人はきっと、環境や起きたことをそのままみているのではなく  生い立ちや積んできた経験によって出来た様々な心の中の鏡を持っていて、そこに映った鏡像を見ているのだと思います。

どこにも、客観的な現実なんてなくて。

あなたが/わたしが、環境から受け止められたことだけを見たいものを見たいようにみているだけ。

同じものを見たり同じ目にあっても「よかったなあ」と言える人と「ここがいやだ、あれが許せん」と言う人がいるということは

それぞれの心の鏡が、どんな像を映しているかの違いなのかもしれません。

「あなたの受け止め方しだいでは?」と、他人から言われてしまうと、とても冷たく聞こえてしまうけど・・・

もしも自分から「私が思い込んでただけなんだ! 重くて苦しくなるほうへ受け止めてただけなんだ!」と気づけたら、

現実には何も変わっていなくても目に映る世界が違うものになる。

それに近い経験を、この本を通してさせてもらいました。

2種類のポジティブさと、「置かれた場所で咲く」ということ

ポジティブ、前向き というと、「将来に向かって努力する」とか「落ち込まない、くよくよしない」とか

「ネガティブなものと縁を切る」「暗いものをしりぞける」「弱さに勝つ」ような、心の持ち方や人物像をイメージしがちです。

それと対比して、この本のタイトルにもなっている「置かれた場所で咲く」という心のありようは、まったく違う「分け与えられるポジティブ」のあり方だと思います。
弱さの隣にいて動じない、寄り添えるふところの深さとか。
疲れた人の休み場所になれる、ホッとさせてあげられる場所を作れるとか・・・。
何かを「得る」ため、何かに「勝つ」ため、ではない前向きさ。
そういう、周りに「分け与えることのできる」明るさを持った人は、自分の置かれた環境に感謝することを忘れないで
今、持っていないものを数えるより、与えられたものを深く味わって生きている、今ここでやれることを丁寧にやっている・・・きちんと「咲いて」いるから
ありのままそのままが、おだやかにポジティブ、なのだろうな・・・と思います。
そして、曲がりなりにもひとの妻になり、親になったワタシにとっては、こちらの「置かれた場所で咲く」ポジティブさのほうが
これから大事に伸ばしていかなきゃいけない心なんじゃないか、と思いました。
生まれ変わったようにいきなりやさしくはなれないけど、一歩ずつ・・・

[神様のポケット]

また、ポジティブさ に関連して
「たいていの人は、おだやかな人にはおだやかに接し、やさしいほほえみにはほほえみで答えるだろう。
でも、ときにはせっかくの好意が相手に伝わらないこともある。
誤解されることもあるし、相手があなたのやさしさを受け止められないほど深く傷ついたり悩んだり疲れたりしているときがある。
そんなときは、「このほほえみは、神様のポケットに入ったのだ」と受け止めよう、という言葉は素敵だなと思いました。
(振り返れば、ワタシも何か手を貸してもらうたびに、ただ「はずかしい、申し訳ない」とか、もっとゆがんで
「これはワタシが無能で何も出来ないということを指摘しているんだ!」と、素直に感謝できず好意を無下にしてきたと思います。むしろ、そういう側にいるほうが多いです;)
神様のポケットに入った、は たぶん聖書に出てくる「天に財を積む」をやさしく言い換えたものだと思うのですが、
相手のためを思ってしたことが、期待したように感謝されなかったとき
「こんなによくしてやったのに!」と腹を立てるのはとてもやりがちなことで・・・それが人の傲慢さなのですが
たとえ自分の行いが何の意味もないように思えて、苦しくなっても「だいじょうぶ、これが良いことだったかどうかは、いつかの機会に神様が示してくれるから」と、いい気持ちで「絶望を先延ばしできる」んだ、と思いました。

繰り返しになってしまうけど...受け取り方は人それぞれ、だと思います。
それでも一度、手にとって読んでみてほしい・・・ お勧めです♪