ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

映画『窓ぎわのトットちゃん』

『窓ぎわのトットちゃん』観てきました!

tottochan-movie.jp

1981年に世に出た原作を 今、アニメ映画化を許可し、続編も出版した黒柳さんの、現代に対する危機感も伝わってきました。日常の中にどのように戦争がやってくるかということ、戦争というひとつの目的に向かって社会がまい進するとき、その役に立てないからと弾かれていく人たちの出てくるさまが、ずっと描かれていました。

なんでもないシーンでポロポロ泣いてた…。 トットちゃんのパパ〜光のお父さんだった…我らが小栗さんのええ声…ありがとうございます...。

本筋とは外れるけど「子どもが子どもである時間」はとても短いなって。特にトットちゃんのような子は。

映像、とにかく素晴らしい。「これはアニメでなければできない」という子どもの心象風景を生き生きと描くパートが何度か挟み込まれます。ぜひ映画館で観ていただきたい...!

教育のありかた、「ふつうじゃない」と見なされてしまう子どもの居場所についても考える。自分と、息子が、あまり学校に馴染めない子どもだったので、単純にトモエ学園に出会えたトットちゃんが羨ましいなって思いました。

トットちゃんはトモエ学園で受け入れられたことで、「普通になれない」ということに悩み、じぶんのあるがままを否定し、「こじらせて」成長せずに済んだんだ。似た特性の人が、適応障害や鬱などの二次障害に苦しんでる現実がある、今も。時代が違えど。

徹子さんが持つ あの天真爛漫さと才能が潰されなかったのは、とても幸運で世の財産だよ…。

トットちゃんのご両親、あんな、まさに目を離すと◯ぬかもしれない子で、たいへんだっただろうなーとか、でもパパは芸術家肌だから、割と波長あったのかなーとか、作品世界から感じる限りだけど。

そのさまざまなあり方が、 「兵隊に行けない」 「社会の役に立たない」人間だ、とさげすまれる(世の中の空気を内面化している、トモエ学園をからかいにきた他校の子ども達のように)ようになるのは、戦争というひとつの目的に向かっていく時、圧力になって、あらわれるのだろう…と感じました。

様々なものを包括する余裕は 平和であってこそ担保される。そこが失われたとき、弱い人・変わり者と見なされる人から排除されてゆく。

すべてが焼き払われる前の段階として 「したがえ」「耐えろ」「同じようにしろ」 という圧が、ジワジワと、いつもの生活を蝕んでいくことが、かならず起こっているのです。

「それは、まさに 『今』 ではないか?」 ということ。

それも、描かれていたと思う。