鎌倉殿の感想、第39回について。ボロボロに拙くても書き残しておきたくて。実朝の繊細な感情、和歌に込めた思いについて。
実朝様が和田義盛の館をお忍びで訪れた時に出会ったシャーマン、「歩き巫女」の言葉。
「これだけは言っておくよ。おまえの悩みは、どんなものであっても、それはおまえ一人の悩みではない。遥か昔から、同じことで悩んできた者がいることを忘れるな。この先も、おまえと同じことで悩む者がいることを、忘れるな。悩みというのは、そういうものじゃ。おまえ一人ではないんだ。決して」
三谷さんの舞台作品でまったく同じセリフが出てくるのだそうですが、今回のこれってテレビの前の 「同じことで悩んでいる者」 へのメッセージだと思いました。
このドラマの実朝は(中世の権力構造に伴う男色でなく現代的な意味で)男性の泰時に恋心を抱き、女性である妻・千世との性的関係を望まない人でした(このセクシャリティは似ているけど違うものだと思うので併記しておきます)。
彼の和歌も、想い人である北条泰時への恋と、失恋を詠んだ歌であった…ということが35回から少しずつ積み重ねがあり、39回でかなり明確になりました。
鎌倉殿はフィクションであり、歌の解釈も三谷氏による、実朝に子がなかった史実を下敷きにした「二次創作」です!...といえばそうなんですが、大河ドラマが観られる人の層、範囲と影響力を思えば
「問いたいものがあって、そういう人物として書いた」
と受け取っています。奇をてらったようにも、特定層への 「サービス」 として出てきた表現とも感じなかった。
妻・千世への告白のシーンは細やかな俳優さんの演技がすてきで。雛人形みたいなふたりの、かわいらしく微笑ましくもあるんだけど、勇気と決心が表れたシーンだなって。
千世は嫁いでからずっと、なぜ実朝が自分に触れてもくれないのか、自分に何か欠けているところがあるのか、わからなくて悩んでいた。歩き巫女との出会いを経て実朝はあなたと子を持つことは出来ない、あなたのせいではないんだ、と正直な自分の心を打ち明けた。
その時の千世の気持ちを想像したんだけど…
「あなたの本当の苦しみは、わからないかもしれない。
けれど打ち明けてくれたことはとても嬉しい。あなたをひとりぼっちにはさせません。
わたしももう、ひとりぼっちではなくなりました。」
…ということなのかなって。
世継ぎを作るための関係を越え、手を取り合い互いを尊重する者として理不尽な世を生きていこう。というパートナー関係を、あらたに結べたのなら、よかったな。周囲から見たら今までどおり 「夫婦」 であることは変わらないけど、気持ちの告白によって、この時代の言葉ではあらわせない、ふたり独自の結びつきに変わったと思います。
そう、実朝&千世を「夫婦」と呼ぶのが悔しかったりするんです…。絆がある男女を、何百年もたってもまだ他に表現する言葉がない。内縁とか事実婚とか結局「婚姻がデフォルトで、そこから外れた関係」みたいな表現になっちゃうのがモヤモヤしてしまう。パートナーでいいのかな(日本語じゃないし)。感覚としては「戦友」なんだけどな。
あの恐ろしい鎌倉で、ふたり背中合わせでいろんなことと精神的に戦ってるって意味の「戦友」じゃないかと 実朝と千世。
実朝と泰時の関係に戻りますが、的を射止めて無邪気に抱き合って喜ぶ泰時と盛綱(鶴丸)を見たときの嫉妬と寂しさの入り混じった表情、つらかった...。
実朝と泰時の間にある壁 性だけではなく身分差もあり、泰時には妻もあります。ふたりの間では義時という秩序維持の化け物に成り果てた叔父 / 父が目を光らせています… (義時もつれぇんだゼというのはわかってますけどここでは本題から外れちゃうので! 義時大好きだ!)。どんな感情もたやすく政治利用されてしまう。
どこをとっても成就することはない恋なのに、それでも 「果敢に」 和歌で思いを伝え返歌を欲しがった実朝って、か弱くはなく、大胆で情熱がある人に見えました!
「あたって砕ける」つもりだったのかなって。
泰時が、自分への返歌を詠むために悩む=自分のことを考えてくれる時間があった。想い人の心を占めることができた。そう感じられれば、嬉しくて願いの欠片が叶ったように思えたのかもしれません。実朝様の願ったとおり泰時はさんざん悩み、和歌のプロの仲章から「それ恋の歌だよ」という指摘を受けて確信して、泰時も心に正直な人だから 「これを私に贈るのは、『間違い』では?」 と言いに行くのです。(もうここで私は 「間違ってねぇ~!!」ってジタバタしてしまったわけ。でもわかる、泰時はそういう人よ...という納得もある。)
そこで実朝様が 「そうだった、『間違い』であった」 と改めて渡した、あらかじめ用意してあった歌が
おほうみの磯もとどろに寄する浪 われてくだけて裂けて散るかも
という金塊和歌集におさめられた有名な歌。海の波を見て詠んだ写実的な歌と解釈されてきた(諸説あります)この歌が鎌倉殿の世界では「くだけて散った切ない恋」を詠ったものになって新しい解釈をまとったんですよ...! 鮮やか! その歌を前に、仕方がない、けれど飲み込めない心を酒で飲み下す泰時~! 振ったほうの人も、ちゃんと傷を負ってるよ...。
和歌という幾重にも意味を含む間接的な表現・創作物を挟んだから交わすことが出来た、やさしい断りと失恋の受容、その応答だったなぁと思います。
三代目鎌倉殿・源実朝は不幸な事件で夭折し(観たくないようドラマの雪の日...)子を残すことはなかったけれど、後世の歌人や作家たちに影響を与える数々の素晴らしい歌を残しました。
何らかの、抱えてしまった 『わかってもらえなさ』 が、表現の原動力であり、そうして生みだしたものが、自分自身の友になるんじゃないでしょうか。そして本人には思いもよらない形で時間と空間を越えた誰かに伝わり、心を動かすことがあるかもしれない。歩き巫女の言葉がテレビの前の人へのはげましとしても受け取れるように。
私ごときが言うのはおこがましいにも程があるんですが、それはよくわかると思いました。そんなことも考える、鎌倉殿の感性豊かな実朝様像です。
私はBLを主題にした作品が好きで、好んで読むし創作もします(自身の判断で公開範囲は選んでいます)。
娯楽として、同性の性愛関係を好きなように空想して楽しむ自分と。
現に過去におり、現代にも未来にも同じ悩みを抱えた人が存在するという描写が 、特定の趣味向けのジャンルに押し込められず、多くの人が観られる媒体・時間帯・番組でテーマのひとつになったことが、確かにうれしくて、ワクワクして観た自分と。
その両方がいます。
どちらも否定しないで自分の心にどう住まわせていくか? という、すぐに答えの出せない宿題をいただきました。
例えば鎌倉殿の実朝と泰時が寄り添って生きていける世界線を願い、観たいと思って自由に二次創作を描いて悲しさを慰めることは出来ますね。
では今生きて暮らしているさまざまなカップルが、求めることが叶わず「許されざる関係、秘めるべき想い」のままになっていることはどうすればいいんでしょう。マイノリティ当事者でない自分たちに一片も責任がないとは言えない。
「社会通念が追い付いていないから」なんて理屈をつけて保留されてしまっているけど、だったらたくさんの人が思って言葉にしたなら、その通念を変えていくことが出来ます。物語じゃなく現実なので。過去じゃなく今なので。
歴史の結果はもはやどうすることもできないものですが、変えようと願う人が増えれば変えられるのが「今ここ」です。
そういう意味で現実って厳しいものではなく「希望がある」ものだと思ってます。鎌倉殿の実朝の想いがこもった話を視聴してそんなふうに令和へと思いを広げた人が(歩き巫女の言霊ではないけど)「わたし一人ではないはず!」と願います。
…少し話を広げすぎました! ごめんなさい!
エーン鎌倉殿めちゃくちゃおもしろいです、いろんな角度で...!