オン/オフともに 「別・病・死」 を思うことが続くのですが、それは決してネガティブな意味ばかりじゃないって自分に言い聞かせてるこのごろです。
(6/29追記)
義父が家族に支えられながら闘病する姿に接したこと、また自分の両親についても、「歳をとったな」と感じる出来事が重なり、少しずつ心の中で変わってきたように思います。
以前のワタシだったら、「衰えながら介護で他人の手をわずらわせてまで生きて、何になるの。オムツをあてられて 下の世話されながらずっとベッドで過ごすなんて生き恥以外の何ものでもない。もし、自分があんなふうになったら治療も延命もせずにさっさと死にたい」と、こともなげに言っていたんじゃないかと思います。
でも、ごく身近な人々が実際に死に近づきつつあることを突きつけられて 初めて
「どんな形でも、どんな姿になっても、少しでも長く生き続けて欲しい」と願いました。
そして、身近な人だけじゃなく「誰も彼も、好きな人も、嫌いな人も、生きてるだけですごい奇跡だ、いなくていい人なんかいないんだ、誰の命も、大事だ」って
当たり前といえば当たり前すぎる、キレイゴトすぎる思いが、ズシーーン!! と、手ごたえたっぷりに落っこちてきた感じがしました。
いかに自分が「カッコイイ生き方」みたいな、うわべだけの きれいなもの、スカスカしたものにこだわってるか、ということにも気づかされました。いや「気づかされつつあります」と言えばいいのか・・・。
まだ、その「こだわり」は強くて、受け入れられないでいることがいっぱいあります。
協力しながら暮らすこと。
自分が弱いんだってこと。
何もかも完璧には出来ないと言うこと。
いつも全力は出せないということ。
でもしょっちゅう体調を崩して、なしくずし的に助けを呼んでしまうこと。
誰の手も借りないで、ひとりで生きていくこと、迷惑をかけないこと、自活することが目標で理想だったから、今の状況が許せず「迷惑をかけるなら死んだほうがまし」「頑張れないなら、やる気がないなら死ねばいい」とさえ思ってしまうことがあります。死のうとしたこともあります。
「こうあるべき理想のワタシ」が、自分を励まして目指すものではなく 今を否定する重荷にしかなってないです。
いつも「挫折した」「現実に負けて、今ここにいる」感が、ついて回ります。
そう教育されてきたわけでもないのに、どうしてそういう強迫的な思いにとらわれているのかは、わからない。
今週も、たくさんそんな場面があって つらかったです。
でも、どれほど「やれる人」でも。いつかは誰かの支えなくしては、生きられなくなるんですよね・・・。
義父は体力もありバイタリティにあふれていて何でも出来る人だったそうですが
何事も思い通りに仕切るのが好きだったので 家族はぶつかり合わないように少し離れていました。
そんな人が病気になって、初めて周りにひとが集まるようになりました。
義父の病を通して、離れてる家族が密に連絡を取り合うようになって、以前よりつながるようになりました。
病むこと、弱ることにも何かの意味があり、
弱った人、弱りながら、それでも生きている人にも役割がある と思いました。
これから必ず たくさん近い人・遠い人の、老いと死を受け入れながら、目を背けずに見送ります。
ワタシも歳をとりながら疲れながら弱りながら、そのまんま生きていきます。
なんか、とにかく・・・どうしようもなくグズグズズルズルとしつこく 長く生きてみようと思います。