ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

『邪魅の雫』読了

邪魅の雫

最初の1日で、通勤に持ち歩く気力が萎えて(笑)

ゆっくりでしたがひとまず読み終えました。

ネタバレ、以下追記にて。

ええと、まず

関口かっこよかった!! 

何だろうなあ。変わったねぇ。

でも「こんなの関くんじゃない!」という変わり方ではなくて。

『瑕』を経て、リハビリどころか成長した…?

京極堂や榎木津には相変わらずいぢめられてるけど

ふいに対等に口を利く瞬間があってオオッ!? と思わされましたし

(いつもと様子が違う榎木津をいたわるような場面も…)、

頁の割にたくさん登場している―存在感があるように感じましたし。

渦中に巻き込まれたわけでもなく、益田のお供として一歩退いてる立場ながら、

重要なキイワードを要所要所で発していて、

京極堂の薀蓄なみに読んでいて興奮しました。

あくまでもワタシにとって…ですが。

「こっちが放したくないのに放されれば傷付く。相

手も同じだと思うと放したくても放せなくなる。ど

んどん重く、辛くなる――」

なんとなく――解る気がした。

それが重さか。

「好きなんだが、繋がっていることが辛くなる。憎

んでもいないし嫌ってもいない、繋がっていたい気

持ちに変わりはないのに、繋がりを断ち切りたくな

る瞬間と云うのは――あるよ」

君はないか、と関口は尋いた。

益田は答えなかった。

「僕はある」

関口にしては珍しく、簡潔なもの云いだった。

ワタシも人が、ありとあらゆる人間が、好きなので。

でなきゃ、ヒトのカタチを絵に描いたりすることもない。

でも弱いから、重くなる。放り出したくなる。よくわかる。

 

関口という、挙動と思考回路が自分とよく似ているこの作中人物に対して、

第1作で出会ったときから我が分身のように思っているので、

この活躍(?)を嬉しく思います。

ゲスト登場人物の大鷹や江藤も、それぞれに自分自身の一部のような感じがしました。

どちらも好感を持てる人物像ではないけど、思わず「おまいは俺か!?」というほど近い思考回路を持つ人々だなあと…

ワタシもきっと、ポンと背中を押されたら……、なんですよ、ええ。

 

今、ちょっと職場やイベントの出来事を通じて

「ワタシの『社会』、ワタシの『世界』、ワタシの『世間』と、

それ以外の人のソレは、どういう位置関係にあるのだろう??」というのが、

メシを食っていても皿を洗っていても、繰り返し頭にひっかかっていて…。

もちろん京極先生の筆致のように的確に表現する技術が自分にはないし、

周囲の人々にとっては考えるほどじゃない、とるに足らないことだと思うんだけど…。

あてのなかった気持ちの収まりどころが、見つかるヒントが与えられたような気がします。

ああ…『世間』というのは文字通り、個々の『世界と世界の間』に出来る場なのですねぇ…。

よくよく字を見ればそのままなわけですが、そんな単純なことにも気付けないもので…。

ほんの10代~独身の頃まで

「世界はワタシの目に見え感じられる範囲にしかない、その外は無だ」などと

特別なことに気づいたようにうそぶいていた時期が長~くあったのですが

結婚を境にして、誰に吹き込まれたわけでもなく

「私は世界の中心ではなく構成要素に過ぎない…

それは当たり前のことで、またとても幸せなことなんだ…」というふうに転換してきたなぁ…。

と、ごく最近の自分のこころの変化を思い返したりしました。

 

偶然、自分にとってタイムリーなワード盛りだくさんの物語でした。

プチ「憑き物落とし」を体験しました(笑)

自分にとって丁度いい時期に、丁度いい本が出版されて、すごくラッキーだったと思います。

なんて。

現実・フィクションのすべてを自分の身に引き寄せ関連付けてしまうところも

関口先生と、我が身が重なる部分だったりします。