ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』観終えました。

バタバタしておりましたが…大河ドラマの最終回の感想を書く季節になりました。べらぼう、完走しました。

蔦屋重三郎の最期 なんてすてきな締めくくり…! 主人公の去り際はいつも悲しいが、とても爽やかで。家族と仲間たちに惜しまれつつ、とびきり賑やかで べらぼうに賑やかしくおかしな「屁!」 コールでの呼び戻し、拍子木チョン!! 落語のサゲのようなあの世への旅立ち。1年間楽しかったです☺️ ありがとうございました❗️

 

『光る君へ』 の平安朝の女房・紫式部から、江戸の町人・蔦屋重三郎へ。作家から本屋、版元(クリエイターからプロデューサー)へ...と 視点は変わりましたが、どっちも政治家・統治者ではなく文化史に名が残る人物が主人公。文化を扱った作品としてセットで評価したいドラマだなと。なので『光る君へ』と『べらぼう』2つの作品を並べつつ、の感想です。

1年前の『光る君へ』感想はこちらです↓

nekoana.hatenablog.com

大河ドラマ『べらぼう』は、タイトルどおり『噺』だった

いきなりですが 『べらぼう』って、意識的に「これは歴史上の出来事や人物を基にした『フィクション』だよ」 をやっていたと思います。…いや、どのドラマもフィクションだよ? そんなことわかってるよ? と思うんですけど。

こと、この大河ドラマ枠というのが着想を日本史上の実在人物や出来事から得ていることに加えて、最近は、セットの作りこみとかリアリティを生みだす撮影方法が進歩したり、緻密な考証などから「『実際の歴史研究に忠実』か」が、評価されがちなきらいがあり...それは、とても素晴らしいことなんですけど、「設定に実際の出来事との齟齬がある」「この時代にこんな展開はあり得ない」などが、批判の俎上に乗りがちです。

そんなことへの、柔らかなアンチテーゼ? があるのかな…と思いました。自分もつい、戦国ものなんかだと「違う!」と指摘したくなっちゃったりすることあるので。べらぼう風に言えば、それって『野暮』ですね。

あくまでもこれは「噺」なんだ、と。 もちろん『べらぼう』も 脚本に昇華するまでに膨大な下調べがあり、たくさんの考証陣が付いてて 記録類をおろそかにしてはいない。調べた上でアレンジして、織り込んで「あそび」をやる、劇中では「戯け」を描くことにエネルギーを注いでた、と感じました。

コミカル担当だけどやるときはやる、往年の時代劇を思い出させてくれる、長谷川平蔵の愛されヒーローっぷりや、神様として、作品の世界と視聴者の間を行き来する語り・九郎助稲荷など、「噺」 視点で見られるような仕掛けが、いろいろありました。

終盤は「そうきたかー!!」というおどろきの連続だった。「東洲斎写楽とは何者か?」という文化面の謎解き、さらに劇中のラスボス・一橋治済をどう懲らしめるか...という、祭りの裏で展開するクライム・サスペンス。ぶわーっと今まで撒かれた種が芽吹き、点と点がつながって畳まれる爽快感もあり、ドキドキさせていただきました。

そういえば、治済の最期...「失意のうちに亡くなった人の霊が、雷神になって天から怨みを晴らす」…ってのも、 菅公…天神様というビッグネームがいらっしゃったわ、古式ゆかしい天誅だわ…「物語」に則ったんだね…。

『光る君へ』から続いた「ものがたり」への想い

「ものがたりのちからを信じろ」「創作には、世界を変えるちからがある」

が、「光る君へ」「べらぼう」のドラマの底には時代を越えて続いてるなあって。

『光る君へ』を観終えた感想が「このドラマそのものが源氏の物語に連なるものだ」だったのですが、べらぼうも、蔦重たちが作り花開いた奇想天外な読み物文化「黄表紙」の後継ぎだ、と思いました。

毎回いちいち、感じていたことがあって

『光る君へ』 から、何百年も経て、産業がおこり、人口が増え、封建制ではあるけれどそこそこ安定した社会が訪れ。

文学芸術をたしなむ余裕のある層が生まれ、都市住民の識字率は高く、版画や書や読売を刷る紙があり、お金で買えるメディアとなって全国に行き渡ってる…! 「人の進歩も捨てたもんじゃない...(感慨)」を感じながら観てました。「ここまできたよ」って、まひろに見せたくなりましたね。

蔦重とおていは、早産で実の子を亡くしてしまう。けど蔦重が才能を見出した、歌麿はじめとした絵師たちの作品は、のちに西洋の美術界に衝撃をもって迎えられます。蔦重が作家たちと組んで生み出した物語も、次代の作家に影響を与え、様々なジャンルのイメージソースになっています。作品こそが蔦重の子どもであり、その子孫が今も脈々と続いていると思いました。

自分の子を権力の座に送り込み、血統による支配、影響力を振るおうとした、一橋治済と。仲間とともに血ではないつながりで作品を「生みだす」ことをやり続けた、蔦重との対比。これがずっと、あったんじゃないか。

見かたを変えれば、治済は不幸にも血筋しか生きがいを見つけられなかった…ということでもある。子を作り 家系を残すことが生きる目的になってしまった、徳川将軍家のゆがみ。個人が圧殺され、狂気に落ちていくさまは、同時代が舞台で同スタッフによる先行のドラマ10 『大奥』 でも強調されてたテーマだったと思います。

蔦重も含め、人ひとりの一生は短い。できることは少ない。けれど本や作品は、作り手が死んでも存在し続ける。その広がりは血脈よりも広く、遠くにおよぶかもしれない。私が愛読してきた本だって著者はすでにこの世にいません。なのにその内容はイキイキとしている。ありきたりですが そこに、書物というものが持つロマンがあります。

人間が書く生きものであること。個人が死んでも思いや知識、世界の美しさを見知らぬ誰かに伝え、託せる存在であることの、叡智を感じずにはおれません。書物の持つちからの基本に立ち返った気持ちになりました。

読者代表・松平定信も『べらぼう』たちのひとり

中盤~終盤のキーパーソンだった松平越中守定信。教科書的には

「お堅い綱紀粛正、倹約奨励の政治家」「蔦重に身上半減の罰をくだした、敵役」

のイメージがあったけど。

『べらぼう』では失脚後に蔦重の店を訪れ、うきうきとした顔で、店を「神のやしろ」と呼び、限界黄表紙オタクをオープンにして爪痕を遺しw 皆さんが愛すべきキャラクターになりました。私も好きです。

越中どのにとって黄表紙を読むのはまさに、御三卿の出の彼には知るはずもない「別の世界、他の人生を生きる」体験だったと思います。

将軍になっていたかもしれない生まれだったけど、かなわず(奇しくもその望みをはじめに折ったのは蔦重と懇意だった田沼様&源内だったのですが…それものちのための巡り合わせのような)追いやられるように養子に入り 何もかも思うようにならない彼にとって 町人が娯楽を求めたのとはまた違った意味合いの、魂の救済のような、心を自由に遊ばせる、孤独をなぐさめる読書体験だったのではないでしょうか。だから恋川春町を神と崇めるほど はまっていたのではないか、と。

ああした黄表紙との出会いがなかったら、定信も血と家柄に固執し、権力にすがる治済ルートに行ってたかもしれない。才能への敬意があり、創作に心おどる楽しさを知っていたおかげで、聞き書きで源内の幻の戯作を再現してみせたり、写楽プロジェクトに一枚噛んだり、ちょっとだけ蔦重と、べらぼう仲間たちのがわへ、はみ出し歩み寄る余地があった。(豊かな世界を若い頃に教えてくれた水野殿はGJ忠臣だよ~)友達少ない本好きオタクとしても、 「定信くん...不器用すぎ!」 ってシンパシーを感じました。

教科書で知った名前がただの情報でなくなり、息を吹き込まれ、生きた人物として現れる...を、べらぼうの中でいちばん体現したのが松平定信だったのではないでしょうか。(ちょうかわいかった...)

蔦重と歌麿と、おていさんの愛とか。

主人公・蔦屋重三郎個人に目を向けると。

イデアマンで仕事が出来て、とびきり陽気で、ひとを惹きつけてやまない魅力のある人物だけど どこか孤独を選んでしまう、「自分は愛されるに足らない」 と言い聞かせていたような人だったと思います。親に捨てられた(と思っていた)生い立ちのために。

彼が瀬川からの長年の好意にも、自分の気持ちにも気づかなかったのは、吉原育ちの掟として叩き込まれたものがあるからだと解釈していたんですけど、「俺が」しあわせになるために何か求める、という欲を持てない育ちのために、無意識のうちに足かせをつけている。そのようになるべくしてなったのかもと思います。

決して無欲なわけではないです。彼の欲は、きびしく無惨な身売りを強いられる吉原の女性たちを見ていて芽生えた「自分以外の誰かを笑顔にしたい」 という、無欲であることよりも、ある意味では難しいこと。そこに 「書を以って世を耕す」という指針を与えてくれたのが平賀源内だったんだと思います。よりたくさんの人の心を楽しませるには、おもしろい本を作って売ればいいんだ! という、彼の欲にマッチした道が示されたんですね。

その仕事は上記のように素晴らしかったけれど、版元の道を歩んだことで 自身もじつは、たくさんのひとびとに愛情を向けられていたことを発見していく過程だったと感じました。商売を広げ、店を大きくすることが、すなわち人と縁をつないでいく道のりでもありました。

それが如実にあらわれていたのが 歌麿との関係だって思うんです。

蔦重はどんどん新しいものや他人に飛びついていく外向きさがあり、対して歌麿は自分の感情をねちっこく見つめる、内向さがあって。

性格が真逆のようだけど、根は似た者同士だったと思います。愛されることに臆病 なところが。

臆病だけど、蔦重には、作品のアイデアがある。歌麿には、そのアイデアを形にするセンスと技術がある。その分野でだけは、2人とものびのびと楽しんで、才を発揮できる。作品づくりを通して、正反対なふたりの凸凹がピッタリ噛みあう。

歌麿は蔦重の要望を誰よりもつぶさに汲み取って作品にする。それは、他の誰にもまねできない、ふたりだけが通じ合える愛情表現でもある。交歓、といえばいいか。

そういう蔦重と歌麿の誰にも入れない関係を、おていさんは、結婚した当初から(あ、帰ってきた蔦重のおっかさんもか)感じ取っている。

歌麿は 蔦重と夫婦になり子をなすことも出来る女性のおていさんにひっそり嫉妬しながら、なんとか、振り払うように「ちゃんとしたい」と、蔦重からの自立を試みたり、距離を置いたりする。

でもねー。ここが「熱いな!」 と思ったんですけど、おていさんもまた、歌麿に嫉妬してたんです。

「旦那さまにとって歌麿は唯一無二の存在だ」って認めるんです。歌麿が描き、蔦重が適切に指図し、皆を夢中にする作品へと磨き上げていく、楽しそうにたくらみをする2人を見ていて、自分は蔦重と、こんなふうに特別な感情で、結びつくことは出来ないって。おていさんは気づいてた。

おていさんがすごいなと思ったのは、その気持ちを胸に秘めず、言語化して、蔦重とむりやり縁を切ろうとしてた歌麿に、ぶつけるじゃないですか。(すごく好きなシーン)

「旦那さま(蔦重)にとっていちばん必要な人は、歌さんだと私には見える。あなたから見れば、女で妻で、歌さんがほしいものを何でも持ってるように見えるかもしれないけど、歌さんのようなことは私には決してできない。」と、はっきりと開示するんですよね...。

そこから「そんな旦那さまと歌さんを 私はずっと見ていたい。2人にしか作れないものを見たい。また旦那さまと仕事をしてほしい」 という包み込むこころになっていく。「おていさん、男男の激重感情が好きなんだな!」 って皆が湧いたけど、ここまで自分の気持ちをしっかり言葉で伝えられる表現力、聡明さもまた、当時の女性でありながら、無類の本好き、読書家だからできたこと。本と、本を作る2人を愛する、おていさんにしかできなかった、最高の愛情表現だー! と思いました。

おていさんの本心からの呼びかけに応え、歌麿は自分の感情に自信を持って(「そんなふうにしかできねえ人間もいるんだよ!」と蔦重に言って)耕書堂に戻って、絵筆をとり、作家仲間たち、蔦重とていとの輪の中に、居場所を見つけることが出来ました。

ここも、徳川家のような血のつながりでも、性や体のつながりでもなく...間に本が、創作があった。それぞれに事情を抱え、壁を作ってしまった者たちの間で、作品というものが媒介になってくれたと思います。

「この3人の関係はどう着地するの? 全然わからないよ!」 って、ロマンスとして、ものすごくハラハラさせられて…歌麿の、蔦重への恋が恋として、思慕は思慕として、ドラマをずっとつらぬく柱になっていて、「いろどりになるマイノリティ」扱いにされなくて、よかった!! って、ほんとーにホッとした。いや、どきどきする三角関係でした。

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むすび

会ったことも、話したこともない人でも、同じ作品を読み愛好した人同士、うっすらとした「同じ世界を共有している」という好意や、連帯感が生まれることがある。

それならなおのこと、作品作りに共に携わった人たちの間には、血のつながった家族ほど、いやそれを越えた、もっと強いかもしれない結びつきが生まれることがあるでしょう。

創作活動が一部の身分階級のものから、マス性を帯び商売として世の中に広まる、平和な時代において、人と人を「つなぐ」ものとして間に本があった、その本を作り続けた蔦屋重三郎は、確かに偉大だったなあ。と感じたドラマでした。誰よりも、本のちからを信じた、本でひとを変え、また本に人生を変えられ、救われた人でもあったなあ、と。

耕書堂に集った、個性爆発のおかしな面々たちのように、不器用な人間でも ひとつの絵・ひとつの物語を差し出すことで通じ合える人がいる。世界とつながる道が開ける。

それがうれしいな、自分にとっても救いだなと感じた、1年かけて書かれた長い黄表紙 『蔦重栄華夢噺』 だったと思います。この平和な時代が、いつまでもあるように努めなくてはなりませんね。

さて2026年の大河ドラマは 舞台が久しぶりに戦乱の世へ戻ります。果たして、どんな新しい英雄たちの人物像が生まれるのか…(まためちゃくちゃな感情にしてくれることを期待してる...)楽しみにしています!

 

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