ドアの猫穴

日々思うこと・感想文・気軽に出来るボランティア情報とか書きます。

ブログではウソ書かない。

お花見は毎年恒例、都内某大学構内で。

桜

ちょっと落ち込んでた時に 考えたことなど。

歳を食うというのは すぐに 「あいつが悪い」 と言えなくなる、しんどさを抱えることかな と。

例えば 自分が親になったら 「あ、母もこんな気持ちだったんだな。大変だったんだな」

ということに気づいて 親をそう悪く言うことは出来なくなった。

小学生のころ嫌いだった担任の先生は、しょっちゅう生徒の前で「ああ、つかれた」とぼやいていたけど

いまの自分だって、ふと省みれば子どもたちの前で愚痴っている。

選挙権を行使して今の政治があるということは 今ある暮らしにくさ、理不尽さは

自分の不勉強さいい加減さによって 選び取ってしまった苦しさでもあるな、と思うし。

若い頃は 自力ではどうにもできなくて、「外部」「あちら側」にいる「あいつら」が社会を作っていて。

「あいつらが権力を振りかざして、苦しめたりいじめたりしてきている!」と思っていたところがある。

自分とは関係ない人たちだから、攻撃するにも手加減はいらなかった。

「あいつら」さえいなければ、自由になれて、良いことが訪れるように、感じてた。

でも 時がたって、今は「あちら側」に、ワタシが立っていると思うと

「あいつら」だった人たちの気持ちもわかるよ・・・ってなって、

怒りの矛先もわからないし、呑み込むほかないような、気がする。

...ホントは呑み込むんじゃなくて それを「責任」と、とらえて。

「オトナなのだから。その気になれば変えていけるだけのチカラがあって、立場にいる」んだから。

もうちょっと後の時代のひとのためにも 具体的に動いて 戦っていかなきゃねぇ。