(日本国内で謂われるところの)終戦の日に出来上がりました。
その日いろいろな関連番組や 新聞の特集記事などを見ていて「戦時らしい」自粛や規制というのは お上から法や条例など、明文化されて押し付けられたものなのかと思いきや
ほとんどは なんとなく民間から、自主的に、「忖度」で始まった行動だったことがとても多くて、なんだかなあ…という思いです。パーマを禁止しようと言い出したのは理容業者だった、スポーツのルールに外来語を使わないようにしたのはプレイヤー間から出てきた、とか。
ああ、やっぱりこの「自主的にやっていることなので 政治はいつでも『そんなこと言ってませんよ』って感じで責任はなくて、自分たちのルールだから、仲間はずれとセットになっているから より逆らいづらい」っていうの、これ私知ってる! よく見かける…主に二次創作の同人活動してる中で! と思いました。その類似性が 怖く感じました。
いつまでも「悲惨さ」ばかり強調し、「子どもが見る悪夢」のようなビジュアルを突きつけるだけでは もう今後の戦争をしない国づくりに対しては 抑止力にならないなっていう…そういう時期は 終っちゃったのだと思う。
「何が当時ひとびとをあんな無謀行為に走らせたのか、そこに至るまでどんな社会の状況があったのか。」「戦争前夜」の出来事を検証するドキュメントや 当時の日常風景を描く作品が このごろたくさん出てきたな~とも感じます。
「その時代のひとびとが、今より好戦的で無知で妄信的だったのかな。
そうではないだろう、今生きている私たちと何も本質は変わらないだろう。」
という「地続きの歴史」として知ることができる機会を持ちたいし、そういった冷静で淡々とした情報が新しくあがってくることを、歓迎したい。時代の空気へのカウンターとして。
黒焦げの死体の山の映像なんて目にした時には 人はどうしても目を背けたくなりますし 衝撃ゆえに「早いトコ忘れてしまおう」「何も知らなかった」と自分を仕向ける 防衛機制がはたらくのだと思います。
それよりも深く心に食い込むのは 「だれもが あの時、人を、文化を破壊し尽くすのに直接間接に賛成し手を貸した『ひとり』になりうること。
手を貸した人々の末裔であるまぎれもない事実」を 知ることだと思います。
加害者でもあり 被害者でもあり
過去そうであり 現在も知らぬ間にそうであるし
これからそうなるかもしれない、
私も、あなたも その「ひとり」です。
余談的に はじめの「忖度」のはなしに戻りますが
いつかまた自分が生きてるうちに 好きな絵なんか描けない、こんな↑フザけたもんを描いてたら 最初は「これは、いかがなものでしょうか?」と 配慮を求められることから始まり いつの間にか 非国民って言われて、突然脅迫されたり 凶器を投げつけられるときが 来るかもしれないな。
そうなりそうな気配もあるから 今のうちに「やり逃げ」というか。もう、今しかないのよ。好きなもの好きなように描かせてくれよ! って気持ちで行こう。今、とても、悲観的な気持ちです。
描くものとはまったく、そぐわないことばかり考えています。
失礼しました。