5月初め、改元のタイミングで寺社にお参りし、記念に御朱印をいただいた方がたくさんいました。
授与所に長い行列が出来たことや、授与された御朱印の一部がフリマやオークションサイトに あたかも「限定グッズ」のように出品され、授与料より高額で取引されてしまっていることがニュースでも取り上げられ、御朱印ブームどころか 狂騒曲、とでも表現したくなるような事態が起きていました。
希望通りに御朱印が手に入らないことに 寺社へのクレームを入れたり 御朱印を書かれる職員の方に対する恫喝・暴言行為まで起こる...ということも起きているそうです。高額取引を防止するためや、職員の負担を減らし、安全を守るためなど 授与をやめた寺社、期間限定の御朱印を授与しないことにした寺社も出てきました。
丁寧に対応している方ほど心ない来訪者の言葉に傷つき、やめてしまわれるのかなあと、悲しく思いました。
こうしたいくつかの事件に触れ憤りを感じている参拝者の方々も、たくさんいます。私も悲しい...と思います。最近、お寺や神社を訪れることが楽しくなり、御朱印もいただくようになった側の者なので。
自分が御朱印をいただける寺社を訪れたとき 心がけていることは、
- 何はさておき、神様仏様へのお参りから
- 法要・祭礼・祈祷など祭儀があるときや、特に混雑しているときは「またご縁があったときに」として、やめておく
- 書いてくださった方に、御礼と、感謝を言葉で伝える
と、いうようなところです。
https://twitter.com/itouzu/status/1125242668806598656
もともと「ものごとのルーツ」を調べるのも好きなので「そもそも御朱印って何?」ということも調べてみたら それもまた、とてもおもしろかったです。
授かったものをおカネに換えようとする人も、お参りしてご縁を結んだしるしを おカネで手に入れたがる人も
神様や仏様ではなく「お金」を信じている、いわば違う信仰を持った人々なので、いくら「罰当たりだ」と声を上げても全然届かないでしょう。 そもそも神仏を恐れていたら こんなことはできないはずなので。
だから私は御朱印をめぐる転売や迷惑行為について「バチが当たる」とは言いません。何でもお金に換えることしか頭にない人には効果がありません。
チケットの転売行為と同じように、寺社が「転売しないで」と言っている御朱印が出品されているものに関して粛々と違反行為を通報していくのみです。
「転売が起こるような、コレクターごころをかきたてる美しい御朱印を作るのがよくない」「御朱印も通販に対応すればいい」などの意見もあるようですが、「そこまで寺社側がやらなきゃいけないの? 問題なのは転売する人と買う人でしょう?」と疑問に思います。
「モンスター参詣者」の行いばかりが、報道やSNSでクローズアップされることで「御朱印を求めることが寺社の迷惑になるなら御朱印めぐりはやめておこう」と、真っ当な感覚を持った人ばかりが足が遠のいてしまうかもしれません。
また私のような 最近御朱印を頂くようになった者は、ブームになる前から続けていらっしゃる方から「あなたも意味なんてわからずにやってるんでしょう」と いちばんタチの悪い参詣者のイメージに寄せて見られてしまうかもしれません。
どのジャンルでも 急に人口が増えた現象の中では「古参」vs「ニワカ」の対立構図が、当事者の実感とは離れて、勝手につくられ、無用に煽られてしまうように感じます(まあ自分の場合は刀剣なんですが...)。
昔からの方も最近からの方も 参詣者は節度を守ってお参りしている人のほうが大多数です。また寺社の僧職・神職・職員の方は、日本の宗教について御朱印から接点を持ってくれることを、喜んでくださっていることがほとんどです。
これも刀剣に携わる方でそうだったのですが、『知られなければ、伝えることもできない。どんどん足を運んで!』と、現場にそば近い方ほど、強く危機感をもっていらっしゃると思います。
神社やお寺も後継者がいないことや、社殿や所有する文化財、周囲の環境を維持していくための費用の問題などに直面しています。御朱印の授与料、奉納等で わずかでもそのお役に立てたら...と思います。自分へのご利益を期待するよりも、むしろその気持ちで、お金をお渡ししています。得体の知れないフリマ出品者ではなく、直接お届けしたいところへ。
宗教に携わる方は 神や仏の「人々を苦しみから救済する」「安心や豊かさをもたらす」という目的のため、その力・ことばを借りて人と話し聞くことを使命としてきました。カウンセラーやセラピストの仕事を昔々から担ってきた方々です。
近所のお坊さんの法話を聞いて「こんなに身近に相談相手がいたんだ」と気づく方もいらっしゃいます。正しく興味を持って訪れることをいやがっている所はない、と思います。
私が初めて御朱印を頂いたのは 昨年の秋 京都の報恩寺という浄土宗のお寺でした。
京都の街中ですが一般公開・観光化していない静かなお寺で、ご住職のおはなしをゆっくり聴く機会に恵まれたこともあり 「お寺というのは、いいものだな...」と 今まで縁なく生きてきた人生を「もったいなかった」とさえ思いました。
これまで打ち込んでいたことに、行き詰まりを感じていた時期でもあり、「寺社へのお参りを、ながく続けられる生きがいにしたい」と思ったのも この報恩寺での出会いと感謝がきっかけでした。
その後お参りした寺社でも、写真も撮らせていただいてるのですが、私にとってはアルバムを見るよりも書いていただいた朱印帳をめくったときのほうが、人とのやりとりや境内の景色などの記憶が、不思議とハッキリ蘇ってきます。
「これほど貴重なたからもの、自分にとっての「思い出帳」になるものはない。」
御朱印巡りをされる先達の方の気持ちがわかったような、自分なりの意味のようなものが見えたときでした。お金で買った御朱印では決して味わえない気持ちだと思います。
この御朱印ブームが去った時、「みんながほしがるものをほしい」と思う人も、お金になるものにしか興味を示さない人も去っていくでしょう。
その時にも自分は神様仏様のような、「おおきなものへの畏敬」は忘れない人間でいたい。一度結んだ「縁」を切らず、息の長い参詣者でいたい、と思っています。無理なく、人と比べることなく。
宗教の長い長い、人類の始まりと同時くらいの歴史に比べたら 人の一生も一時のムーブメントも、はかなくて短いものでしょう。
今のブームよりずっと大変な動乱や危機を乗り越えて、私たちが知っている神社やお寺はそこにあります。
それらが失われてしまうのは 誰もお参りする、省みる人がいなくなったとき、忘れられてしまうときです。お参りし続け次の世代へつないでいくことが 寺社とそこにまつわる文化を守り、伝えることに寄与する、と思います。
以下は蛇足のような 覚書のようなこと。
昨年京都でいろいろなお寺にお参りした時に感じたのですが、『御朱印は、参拝を終えてから頂くもの』という原則も 実際はそれぞれの寺社により『鉄則』ではないんだな...ということです。
例えば高台寺さんでは 入り口で「朱印帳がある方は先にお預かりします」と案内があり、拝観してる間に書いていただき、戻るころに書きあがっているので受け取る。という仕組みがありました。
そのつもりで、翌日行った こちらも大きなお寺の智積院さんでは、すぐ授与所に向かうと「お参りはこれから?」とたずねられたので「アッ出てきてからのほうが良かったのかな...」と気づきました(これからです、と正直に申告すると預かっていただけました)。こんなふうに、まだまだ初心者のためお手間をかけさせてしまうこともしばしばで、難しいです。
いろいろあるけれど 杓子定規に「こうすることになってるはずでしょ」「A神社ではこういう対応だったのにB神社ではナゼしてないんだ」と、いつも原則を引いてくるのではなく 実際に行ってきいてみて「郷に入りて郷にしたがう」のこころで居れば楽しくお参りできるのではないかな、と経験から思います。
もちろん原則や由来や理由も 知っておいたほうが良い。ウヤムヤにしてはいけないけれど、目の前にいる生身の人との円滑なやりとり、「気持の良い参拝空間を一緒に作るんだ」という心が、実際の参詣では大切なんじゃないかと。原理主義的な押し付けが、目の前にいる方との軋轢を生んでは何にもなりません。
どこに行ってもまず出会うのは「人」なので...。神様・仏様との「縁」も大切ですが 間に立って縁をつなぐ務めをして下さってる人との出会いも、大切な縁だと思っています。
さまざまなお寺・神社からの参拝マナーや御朱印をめぐる発信を拝見していると お寺・神社には神仏だけではなく、それぞれ役目を持っておつとめしている「人」がいらっしゃり、御朱印に対するスタンスも人の数だけ考え方があり「神社だからこうだ。お寺はみんなこうだ。」という決まりはない。ひとからげの決め付けは出来ない...ということがわかりました。参拝者どうしでもそうですね。
「評判の寺社だけど、ここのお坊さん・神職は、合わなかったかも」「なんだか雰囲気が合わないかも」ということもあろうと思います。相性や思想の違いは必ず有りますから。「ご縁がなかった」ということでしょう。
授与所で朱印帳を受け取る時の「ようこそお参りくださいました」の言葉が好きです。「ありがとうございました」ではなく「ようこそお参りくださいました」。
初めてきいてジーンとしたし、そのあとどちらの寺社に行ってもそうだったのが、また嬉しくて。何度聞いても噛み締めてしまうんだなぁ...。
日々たくさん御朱印を書かれる寺社職員の方にとっては 私はおおぜいの中のひとりだろうけど、参詣者にとっては「ようこそおまいり~」の言葉って 日常にない、そこに行ってなかったら一生出会わなかった言葉かもしれなくて、それを聞くだけで貴重な一期一会だな~と思うんですよね。
これからも良い縁を結べるお寺・神社と、たくさん出会えると良いなあ。